
- 1970年代、人種差別の撤廃を掲げる「ロック・アゲインスト・レイシズム」の活動を追ったドキュメンタリー。
- 当時のイギリスでは、極右政党の国民戦線が急速に台頭し、激しい移民排斥運動を展開していた。
- レイシズムはどのように勢力を広げ、対するカルチャーはどのような戦いを繰り広げたのか。
『白い暴動』概要
『白い暴動』は2019年のイギリス映画です。監督はBBCのドキュメンタリーを手がけてきたルビカ・シャー。初の長編となった本作は、ロンドン映画祭やベルリン国際映画祭で上映され、高い評価を受けました。
作中で描かれるのは1970年代のイギリス。移民への人種差別が蔓延するなかで立ち上がった社会運動、「ロック・アゲインスト・レイシズム」(RAR)の活動を追ったドキュメンタリーです。
急速に台頭していた極右政党・国民戦線に対抗するため、独自にファンジンを発行し、反レイシズムの仲間を募っていったRAR。ザ・クラッシュ、スティール・パルス、トム・ロビンソンといったミュージシャンも加わり、カメラは1978年4月30日、10万人によるデモと音楽フェスの光景を映し出します。
『白い暴動』解説:70年代カルチャーの民主制
ロック・アゲインスト・レイシズム
『ボヘミアン・ラプソディー』(18年)で描かれた「ライヴエイド」の開催は1985年ですが、このときロンドン会場のウェンブリー・スタジアムに詰めかけた観客は72万人。それだけでも十分に圧倒される数字ですが、このライヴエイドより遡ること7年前、同じロンドンのヴィクトリア公園に10万人の観客が押し寄せていました。クラッシュも参加した「反レイシズムのカーニバル」です。
その中心となったのは「ロック・アゲインスト・レイシズム」(RAR)と呼ばれる市民団体。発足したきっかけは、急速に高まる人種差別の気運でした。時は70年代、イギリス国内では極右政党である国民戦線(NF)が台頭し、移民に対する激しい差別を助長していたのです。
『白い暴動』はRAR創設者のひとり、写真家レッド・サンダースへのインタビューから始まります。ことの発端は1976年8月、ミュージシャンのエリック・クラプトンが、バーミンガムでの公演中に人種差別発言を行ったというニュースでした。偉大なギタリストの発言に危機感を覚えたサンダースはすぐに批判記事を書き、数人の仲間とともにRARを発足します。
あのエリック・クラプトンが差別発言なんて……と耳を疑うかもしれませんが、調べてみると紛れもない事実のようです。1976年のコンサートで、クラプトンは「昔はクスリをやっていたけど、今はレイシズムに夢中だね」と叫び、続けて卑劣で訳出不可能な言葉を並べ立てています。いくら若かりし頃の発言とはいえ、看過できるものではありません。
ところで、この「レイシズム」という言葉、個人的な感覚からすると非人道的な含みを多分に帯びていると思うのですが、クラプトンは躊躇せずに(あるいは酔っていたのかもしれませんが)使っています。このあたりの語感が、おそらく現代日本人の感覚とは大きくズレています。
卑近な例を上げると、2013年頃に話題となった某しばき隊が使う「レイシスト」の語は、少なくとも彼らにとって、攻撃的なパワーワードであったに違いありません。それは右翼団体の存在をはっきりと否定する、武器としての用をなしています(彼らはそう考えているはずです)。
しかし、どうやら70年代イギリスの、ある特定の集団において、「レイシズム」という言葉は肯定的に使われていました。当時の国民戦線幹部であったマーティン・ウェブスターは、BBCのインタビューで次のように発言しています。
なぜ「国民戦線はレイシスト戦線だ」というポスターを作ったのかというと、それは我々がレイシスト戦線であるからだ。この意味を理解してほしい。我々が支持する国家という概念は、我々の社会を組織するための手段であり、その国家を作るための合理的な原理は、民族的な均質性にほかならないと考えている。
というように、国民戦線はみずから「レイシズム」の語を掲げていたのであり、たとえ大衆が彼らを「レイシズム」と批判したところで、何ひとつ効力を示さなかったといえます。それほどまでに、人種差別がまかり通る時代だったのです。
その背景に何があったかといえば、およそ私たちの想像に難くないもので、深刻な失業問題でした。1975年4月の時点で、イギリス国内の失業者数はすでに67万人。その翌年の12月には127万人にまで増え、世界恐慌以降では最悪の数字を記録します。労働党政権下での施策も虚しく、職を失った若者の不安は、アフリカ・アジア系移民に対する反感となって表出していきます。
血の川の演説
加えて、そこには理論的な後押しもありました。遡ること1968年、保守党議員だったイーノック・パウエルは、イギリスへの移民流入を強く批判し、人種関係法(Race Relations Act)の必要性を訴えます。「イギリスは20年以内に黒人が支配する国になるだろう」と憂いてみせたのです。一般に「血の川の演説」と呼ばれるこのスピーチは、とある世論調査によると、当時のイギリス国民の75%が支持したと言われています。
その後、パウエルは影の内閣のなかで失脚し、政治的な影響力を失っていきます。とはいえ、彼の文意だけ見れば理路整然とした主張が、国民戦線をはじめ、極右団体の理論的支柱となったことは否めません。ちなみに、前述したクラプトンがステージ上で支持を表明したのも、何を隠そうこのパウエル議員です。
すでに述べたように、レイシズムを標榜するNFに「レイシズム」という批判は通用しませんでした。そこでRARがどのような批判を行ったかといえば、ひとえに「ファシズム」だったと言えます。それは選挙至上主義の政策を打ち出していた国民戦線にとって、いわば秘部でした。彼らはレイシストであることを望んでいましたが、ファシストであることは望んでいなかったのです。
そもそもNFの設立は1967年で、その前身となったのは3つの極右政党でした。いずれも人種差別を辞さない点では共通していましたが、ファシズムに対する歴史認識には温度差があります。70年代に国民戦線の党首であったジョン・ティンダルは、政治活動の初期からナチスに傾倒していたようですが、同時に政治的手腕にも長けており、表立ってファシズムを標榜することはありませんでした。あくまで民主主義のなかで、議席を勝ち取ろうとしていたのです。
となれば、RARによる徹底したイメージ戦略は、「ファシズム」の一点攻めに尽きます。『白い暴動』を通して描かれるのは、いかにしてNFをナチスと結びつけるか、という不断の運動にほかなりません。敵を糾弾する内容のファンジンを発行し、コラージュされた意匠のポスターを街に貼り、レゲエやパンク・ロックでロンドンの空気を変えていく。その活動を通して集まった仲間が、さらに次の運動を引き起こします。
こうしたRARの活動は、1978年4月30日、ロンドン郊外のヴィクトリア公園で最高潮に達します。10万人の観客を前にして、ステージに立つスティール・パルス、トム・ロビンソン、そしてザ・クラッシュ。黒人と白人の垣根を超えた音楽がイギリス中に響き渡り、ファシズムへの決別を表明するのです。それは「音楽」が本質として民主的であり、それ自体として政治の力を生み出すことの証左にほかなりません。
本作はフェスティバルの場面で幕を下ろしますが、RARはその後も数年ほど活動を継続しています。
このNFは急速に力を強め、イギリスの第三党だった自由党と肩を並べるまでとなります。76年に行われたレスター(英国でも特に移民の多い都市)の地方選挙では44,000票を獲得するほどに。
参考作品:『愛の嵐』
戦後、ファシズムの亡霊はヨーロッパ各国であらわれます。イタリアの監督リリアーナ・カヴァーニが監督した『愛の嵐』では、1957年のオーストリアを舞台に、元ナチス親衛隊の主人公の倒錯的な愛が描かれます。ルキノ・ヴィスコンティも称賛したとされる傑作。ユダヤ人の少女を演じたシャーロット・ランプリングにも注目です。