
- カナダの俊英グザヴィエ・ドラン監督の第4作で、これまでとは異なる作風のサスペンス。
- 亡き恋人の葬儀のために訪れた片田舎で、主人公を襲う静かな狂気と暴力を描く。
- 舞台となったケベックの独立問題など、多種多様なモチーフに考えさせられる一作。
『トム・アット・ザ・ファーム』作品概要
『トム・アット・ザ・ファーム』は2013年に公開されたフランス・カナダの映画です。グザヴィエ・ドラン監督の4番目の作品にあたり、若干25歳での公開となりました。
原作のある作品はドラン初の試み。カナダを代表する劇作家ミシェル・マルク・ブシャールによる同名戯曲をもとに、彼とドランの共同で脚本が執筆されました。
主要キャストとして、ドラン自身が主人公トムを演じるほか、その相手フランシスをケベック出身の俳優ピエール=イヴ・カルディナルが、彼の母親アガットを同じくケベック出身の女優リズ・ロワが演じています。
亡くなった恋人の葬儀のために訪れた片田舎で、主人公に襲い掛かる静かな恐怖を描いたサイコ・サスペンス。ヴェネツィア国際映画祭では国際映画批評家連盟賞を受賞しています。
『トム・アット・ザ・ファーム』あらすじ
モントリオールで広告代理店に勤めるトムは、交通事故で死んだ恋人ギョームの葬儀に参列するため、彼の実家がある田舎へと車を走らせます。
到着したトムを待ち受けたのは、ギョームの母親アガットと、農場を経営している兄のフランシスでした。アガットは息子が同性愛者だったことを知らず、彼にはサラという恋人がいると思い込んでいます。
トムは一友人として弔辞を読むだけの予定でした。ところが、葬儀が終わるとフランシスが詰め寄り、このまま家に残って母を喜ばせるようにと脅します。一度は忠告を無視して帰ろうとするも、ふと思い直して道を引き返すトム。こうして彼はフランシスの農場を手伝うことになり、アガットにはギョームの恋人サラの作り話を聞かせるのでした。
最初はフランシスの暴力に怯えていたトムでしたが、いつしか彼の男らしさに惹かれていきます。フランシスはアガットを安心させるため、同僚のサラを呼び出して恋人のフリをさせることに。芝居に戸惑いながらもサラはアガットのもてなしを受けますが、彼女が席を離れた途端、フランシスに襲われそうになります。
怒りを覚えた彼女はトムを連れて帰ろうとしますが、彼がフランシスに従属していることを見てとるのでした。そんななか、アガットは皆の前でギョームが遺した手紙を読み上げようとします……。
『トム・アット・ザ・ファーム』解説・考察
ケベック独立問題を背景として
それまでのポップで情熱的な作風からは一転し、『トム・アット・ザ・ファーム』は節制された色調と禁欲的な演出が印象的なサスペンス・スリラーとなりました。音楽に関しても、映像と同期するミュージック・ビデオ的な活用は鳴りをひそめ、レバノン出身の作曲家ガブリエル・ヤレドによる楽曲が緊迫感を作り出しています。
ちなみに、冒頭で流れるのはミシェル・ルグランの「風のささやき」。スティーブ・マックイーン主演の映画『華麗なる賭け』(68年)の主題歌です。2019年に死去したルグランへの追悼を込めて。
このフランス語版の楽曲で幕を開ける物語が、その静謐な暴力とともにフランス/アメリカ的な支配関係を象徴していることは、何よりも最初に述べておく必要があるように思えます。
舞台であるケベック州というのは、カナダでも欧州寄りに位置し、公用語としてフランス語が定められている地域。1970年頃から分離独立の機運が高まり、1995年にはその是非を問う住民投票も行われました。投票結果は否決となりましたが、現在でも独立を願う市民は多いとされます。
そんなケベック州の片田舎に、都会の青年トムは闖入者として訪れることになるのです。そこで暮らす農夫フランシスが典型的な保守層(レッドネック)として描かれていることは間違いなく、それは彼が同性愛を嫌悪していることからも、あるいは亡きギョームが堅信式の儀礼に参加していることからも理解されます。
つまり、トムとフランシスの関係の背後にあるのは、ケベック州におけるフランス寄りのリベラル層とアメリカ寄りの保守層のあいだの対立ということになります。当初はフランシスの権力に抵抗していたトムが、いつしか彼の男らしさに惹かれ従属してしまうというのは、多分に政治的な問題を含んでいるといえます。
詳しく述べるのは野暮ですが、物語のラストでフランシスが着ている「USA」の刺繍入りジャンパーを目にし、エンドクレジットで流れるルーファス・ウェインライト(彼もまた同性愛者であることを公表しています)の「ゴーイング・トゥ・ア・タウン」を耳にすれば、そこで表象されている「アメリカ的なもの」の輪郭をはっきりと捉えることができるに違いありません。
禁欲的なサスペンス
社会的な背景はさておき、『トム・アット・ザ・ファーム』には何度見ても汲みつくせないほど多様なメッセージに溢れています。もともと戯曲版では、登場人物のたちの心内語がオフの音声で挿入されていたそうです。
原作が意識の流れを言語によって表現しようとしたところを、映画版では巧緻な演出によって表現したというわけです。それに加えて、先に述べたような禁欲主義(別にこれまでのドランが享楽に溺れていたわけではありませんが)。観れば観るほど味が出る作品です。
一例を挙げれば、家のダイニングに置かれた4つの椅子。それはアガットとフランシス、そして亡き主人とギョームの席なのは間違いありませんが、劇中を通してぽっかりと空いた一人分の席が、そこに不在である者の茫洋とした輪郭を映し出すことになります。
実のところ、トムがフランシスの暴力を前にして逃げ出さないのは、いわゆるストックホルム症候群の類ではなく、むしろこの不在者に対しての贖罪意識であるのだと、そう考えることができます。ギョームと関係を結んでいたことを隠すことしかできないトムは、無意識のうちに暴力と死の世界へ導かれてしまうのです。
偽りの恋人であるサラを読んだところで、その不在の席が埋まることはなく、フランシスによって排除されてしまうことは予定調和であったといえます。
しかしながら、この厳粛とした死に支配された空間のなかで、いや、そのような空間のなかだからこそ、生の奔流が生まれることも確かな事実です。
子牛の出産を祝うようにして踊られるタンゴは、トムとフランシスのその後の関係を暗示していのであり、その関係は寝室に置かれた二人のベッドがいつの間にか隣接するという描写によって、まさに決定的なものとなります。ラストで一瞬フラッシュバックされるフランシスの姿が、トムの未来を暗示していると考えるのは、少しばかり考えすぎでしょうか。
関連作品:『ミザリー』(1990年)
ヒッチコック作品や『シャイニング』の影響が見られる『トム・アット・ザ・ファーム』ですが、ここでは別の方向から「狂気」を描いた作品を紹介。
『スタンド・バイ・ミー』(86年)や『最高の人生のはじめ方』(12年)で知られるロブ・ライナー監督が、スティーブン・キングの小説を映像化した作品。事故で重傷を負った人気作家が、彼のファンだという中年女性に看病される物語です。この女性が変貌していく恐怖に注目。