作品のポイント
・劇作家・演出家の平田オリザと、劇団「青年団」の活動に迫るドキュメンタリー。
・俳優の「内面」を否定するように見えながらも、事後的に「内面」を作り上げていく舞台。
・複雑系の世界を前提とした「現代口語演劇」、そして「観察映画」の手法に見られる共通項。

『演劇1・2』作品概要


『選挙』(07年)や『精神』(08年)などの作品で知られるドキュメンタリー作家・想田和弘。彼が提唱する「観察映画」の第3弾および第4弾として製作されたのが、『演劇1』と『演劇2』(12年)である。
今回の被写体となったのは、劇作家・演出家の平田オリザ。1982年に劇団「青年団」を旗揚げし、独自の演劇理論に基づく作品を発表。1995年には『東京ノート』で岸田國士戯曲賞を受賞し、現在にいたるまで小劇場演劇の第一線で戦い続けている人物である。

『演劇1』では平田オリザ率いる青年団の稽古や公演の様子が、『演劇2』では助成金の問題や海外進出など、彼らと社会との関わりが中心に描かれている。2部作合わせての上映時間は5時間42分。平田オリザと青年団の魅力を余すところなく伝えるドキュメンタリーだ。

『演劇1・2』解説

平田オリザと現代口語演劇

平田オリザの怪物的なバイタリティ。それは「青年団」の舞台稽古(撮影時、5本の作品が同時進行で準備されていた)に端を発し、中高生を対象としたワークショップ、民主党議員との懇親会、果ては劇場の経理事務にいたるまで、様々な場面にあらわれている。驚くべきことに、そのほとんどすべての場面において彼は表情を崩さず、いつもと変わらぬ微笑みを見せているのだ。馴染みの理容室で髪を切るときでさえ、目尻を下げ、広角を上げ続ける平田オリザ。まさに傑物である。

そんな彼の姿が、映画のキャッチコピー「人間とは、演じる生き物である」を体現する存在であることは、もはや言を俟たないだろう。人はTPOに応じたペルソナ(仮面)を被って生きているのであり、試みにその仮面を剥ぎ取ったところで、その下には別の仮面が隠れているに過ぎない。してみると、一般に「素顔」と呼ばれるものは虚構的な制度であって、そのような内面を、言い換えれば「本当の自分」を探す旅など、まったくもってナンセンスとはいえないだろうか、と。

平田オリザが体系化した演劇理論「現代口語演劇」も、こうした内面への探求を、ひとまず括弧に入れ置くことを前提としている。そこで重要視されるのは、人間の心理状態や善悪を追い求めることではない。そうではなくて、重要なのは目の前に広がる世界を写し取ることである、と彼は主張するのである。

歴史的に見れば、それは近代演劇の根幹をなす理論、スタニスラフスキー・システムへの反発として生まれたものだった。ロシアの演劇人・スタニスラフスキーが主張したこの理論によれば、舞台に立とうとする役者は、これから演じるキャラクターの内面を作り上げなければならない。自身の記憶や想像力、あるいは調べた情報をもとにして、そのキャラクターの「心」を模倣するのだ。

この考え方は世界に広く普及し、日本では新劇運動の理論的支柱となったほか、アメリカではスタニスラフスキーの衣鉢を継いだリー・ストラスバーグの手により、メソッド演技法として体系化された。マーロン・ブランドもジェームズ・ディーンも、このストラスバーグの直弟子にあたる映画俳優である。

もっと卑近な例として、山田洋次監督の『幸せの黄色いハンカチ』を想起してみよう。この映画の冒頭に、網走刑務所を出たばかりの高倉健が、たまたま目についた定食屋で食事をする場面がある。ラーメンにカツ丼、そしてビール。久方ぶりのシャバの飯が食べられるとあって、高倉は見るからに美味しそうな様子で食べるのだ。実は、このとき高倉は3日間の断食をして撮影にのぞんでいたのだという。デビュー前に俳優座で演技レッスンを受けたこともある高倉は、こうしたストイックな役作りに余念がなく、いわば役に憑依するタイプの俳優だったといえるだろう。

平田オリザ率いる青年団のスタイルは、これとはまったく正反対である。特に『演劇1』では稽古のシーンが頻出するため、私たちは彼らのメソッドを存分に知ることができるだろう。見ての通り、ここで行われている演技指導は素人目からしても奇妙だ。台詞の間をコンマ単位で調整させ、イントネーションを微小に高低させる。平田オリザはその都度やり直しを指示し、役者に演技を叩きこんでいく。けっして心理や感情に立ち入ることはなく、役者の身体的な挙措に対してのみ采配を振るうのである。

誤解を恐れずに言えば、青年団の役者は人間的な「内面」を持たず、機械的な存在となることを強いられている。まるでロボットのプログラムを組むように、生身の役者に対して外面的なアプローチを行うのである。と思いながら観ていると、『演劇2』では新たな試みとして「アンドロイド演劇」なる舞台の稽古が行われる(大阪大学・石黒浩教授との共同研究で生まれた企画だ)。プログラムした通りの挙動と発話をするロボット俳優を前に、ついに完璧な「コマ」を手に入れたと嬉しそうに語る平田オリザ。これには私たちも思わず苦笑してしまう。

「内面」はどこに見出されるのか

ここまで述べてきたなかで、現代口語演劇が人間の「心」という概念をきっぱりと否定しているように思えるかもしれない。だが、厳密に言えばそれは正確ではない。俳優をロボットのように動かすことで、あるいは本物のロボットを動かすことで、平田オリザが目指しているのは、ほかならない「心」の創出であるように思えてならないのだ。それはまさに、言文一致によって小説に「内面」が発見されたという、日本文学史に対するひとつのパースペクティブのように(柄谷行人)。

先に触れた「アンドロイド演劇」の上演後、ロボットの動きに感嘆する観客に対して、平田オリザが「実は中に人間が入っているんです」と冗談を言ってみせたことは、どこか示唆に富んでいるといえるだろう。「現代口語演劇」は役者=ロボットの挙動を正確にプログラミングする。だが、それは「心」をプログラミングすることを意味しているのではない。人間の複雑な心理を直接に模倣するなど、どだい無理な話なのだ。この点において、役への憑依を主眼とするスタニスラフスキー・システムやメソッド演技法には問題がある。

そうではなくて、現代口語演劇は外部の世界を可能な限りコントロールすることで、虚構的な「心」を組み立てようとしているのだ。人間の「心」は他者とのコミュニケーションにおいて、社会的なネットワークにおいて後発的に生まれる制度と言えるだろう。平田オリザにとって、「心」とは個人の内面に現れるものではない。言い換えれば、デカルト的なコギト(自己意識)の類ではない(この点において、日本近代文学の言文一致とは本質的に異なる)。あくまでも、他者との関係のなかで、無限のつながりのなかで、思いがけず立ち現れてしまうのである。

この方法論を「複雑系の演劇」とパラフレーズしたい。というよりも、平田オリザ自身が著書のなかでこの語を使用している(『演技と演出』)。デカルト的な主体から出発して演劇を組み立てるのではなく、他者との関係、環境との関係から出発して演劇を組み立てていく。それは部分と全体が互いに影響を及ぼし合うという意味で、昨今注目されている「複雑系」の科学にならっていると言えるだろう。平田演劇の特徴である「意識の分散」(俳優の意識を自分の演技だけでなく、周囲の様々な事象へと向けさせる)や「同時多発会話」(舞台上で異なるグループの会話が同時進行する)は、こうした全体との関係性を描き出すことに寄与している。

こうした複雑系の世界を生きているからこそ、私たちの「心」の在り処も変わってくる。ふたたび「人間とは、演じる生き物である」というキャッチコピーを借りるとすれば、普段からペルソナを被っている私たちには、たしかに「素顔」(内面)と呼べるものがない。だが、それは私を一人の孤立した人間、他者から切り離した主体として見る限りにおいて、の話である。相手に応じて様々なペルソナを使い分ける私は、そのすべての関係において、「素顔」をさらしているということにはならないだろうか。言い換えれば、「心」の所在は世界の関係性そのものにあるとは言えないだろうか。

ここまで「現代口語演劇」について考えを巡らせたが、過去作品の被写体がそうであったように、平田オリザと想田和弘の「観察映画」も奇妙な連関を見せている。こう言ってよければ、「現代口語演劇」と「観察映画」の目指す方向は見事に一致しているのだ。つまり、両者はこの複雑系の世界のなかに、「内面」を発見しようとしているのである。前述したように、青年団の演劇において、この「内面」は「心」と読み替えることができる。そして想田和弘のカメラにおいて、「内面」は「真実」に該当するだろう。「観察映画」とは、部分と全体、個人と社会とが複雑に絡み合った世界をダイレクトに映し出し、そうすることによって「真実」にたどり着こうとする手法なのである。

ちなみに、監督の著書によれば、本作のカメラは平田オリザのペルソナが引き剥がされる瞬間を狙っていたという(『演劇 vs. 映画』)。『演劇2』で平田が東大のインタビュアーに答える場面、しばしの沈黙を挟みながら、演劇と社会の関係性に言及する場面を通して、彼の「素顔」が垣間見えたようだ。もちろん。その素顔もまた演技だったと言われてしまえばそれまでであり、ここで現実と虚構を区別することは不可能に近い。

それでも、カメラが世界の観察を止めることはない。複雑系の世界に「真実」の裂け目が生じる瞬間を、虎視眈々と狙い続けるのである。

参考文献

・『演劇 vs. 映画――ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか』想田和弘著、岩波書店、2012年。
・『演技と演出』平田オリザ著、講談社現代新書、2004年。

関連作品:『幕が上がる』(2015年)


原作は平田オリザによる同名小説。とある高校演劇部の奮闘を描いた青春映画で、『踊る大捜査線』の本広克行がメガホンを握った。主役の女子生徒5人を演じたのはももいろクローバーZ。さらに国語教師の役として、青年団の志賀廣太郎も出演している。

過去には劇団ヨーロッパ企画の舞台『サマータイムマシン・ブルース』を映画化(2005年)した本広監督。青年団との関わりも深く、2010年にはこまばアゴラ劇場で平田オリザ作『演劇入門』の舞台を演出している。そんな縁もあって、今回は平田オリザの小説を下敷きに、全国大会を目指す高校生たちのひたむきな姿を描き出すことになった。

撮影に先駆けて、ももクロのメンバー5人は平田オリザのワークショップを受講した。その成果が活かされたことは言うまでもなく、みずみずしく外連味のない演技力を見てとることができる。そこにはアイドルとして不断の努力を重ねてきた5人の素顔も覗くようであり、どこかドキュメンタリー的な趣向も感じさせてくれるはずだ。

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