
- インドを代表する大詩人タゴール。彼が残した無数の歌「タゴール・ソング」に迫るドキュメンタリー。
- 東西のはざまで「自立」をうながしたタゴールの思想は、100年後の現在にまで受け継がれている。
- 時代を超えた普遍性を持っていると同時に、今後の世界情勢に向けられるべきタゴールの思想。
『タゴール・ソングス』概要
2020年に公開された『タゴール・ソングス』は、インドの大詩人ラビンドラナート・タゴールが残した数多の歌「タゴール・ソング」に迫ったドキュメンタリーである。
監督は今回がデビュー作となる佐々木美佳。佐々木監督は東京外国語大学でヒンディー語とベンガルの文化を学んでおり、そのことが『タゴール・ソングス』制作の動機となったようだ。
100年以上も歌い継がれてきたタゴール・ソングの精髄を探るため、カメラはインドとバングラディシュを行き来する。市井の人々や研究者、ミュージシャンたちの声を集めていく過程で、その歌に込められたタゴールの思想が浮かび上がってくる。
本作は2020年4月より劇場公開の予定だったが、新型コロナウイルスの蔓延によって延期される事態となった。当座の措置として、オンライン上にオープンした「仮設の映画館」で上映されている。
『タゴール・ソングス』映画評
詩聖が残した音楽と思想
ラビンドラナート・タゴールと言えば、現代インドを代表する「詩聖」として知られる。アジア人として初のノーベル文学賞を受賞しているほか、政治や教育などの場でも献身した思想家であり、その偉大な功績は後世に語り継がれている。だが、このタゴール、実は詩だけでなく2,000以上の歌も作っていたという。総じて「タゴール・ソング」と呼ばれるその曲の調べを聴くことが、本作の鑑賞にのぞむ際の、ひとまずの目的となる。
一見して理解されるのは、このタゴール・ソングが、まさに音楽であることによって、その思想を100年後の現代に伝えているという稀有な事実である。なにせ幼い子どもまで口ずさむのであるから、もはや遺伝子レベルで刻み込まれているといっても過言ではない。たとえ文字の読み書きができなくても、音声としてなら伝え聞かせることができる。これだけ普遍的な形式で、タゴールの思想が人口に膾炙されていることに、ただただ驚きを禁じ得ない。
とりわけバングラディッシュの歌い手たちは、タゴールの言葉に神聖性まで見出しているようだ。タゴールは天上の存在であり、彼の書いた詩を完全に理解することはできないが、歌っていると心地よさを感じるのだという。タゴールの思想を「書かれた言葉」としてしか知らなかった私たちからすると、こうした側面にはベンガルの遠大で神秘的な文化を感じてしまう。
劇中、タゴール・ソングの歌い手が「インド経済は少しずつ成長しているが、東洋や西洋ほど発展してはいない」と語る場面がある。思わずハッとしたのだが、たしかにインドという国は、東洋と西洋のはざまに位置している。地理的に、というより地政学的に。インド国民がどのように自国をとらえているのか、寡聞にして知らない(むろん「オリエント」が西洋によって発見されたものである以上、そのような問い自体が無意味かもしれないが)。だが、いずれにせよイギリス統治下のインドにおいて、タゴールが東西文明の調和を目指していたことは、疑いを容れない事実である。
1905年、イギリスが得意の分割統治政策によって、ベンガル地方をヒンドゥー教/ムスリム教に二分しようとしたことは広く知られている(ベンガル分割令)。このときタゴールは民族運動に挺身し、数々の愛国歌を書いている。劇中で流れるバングラディシュ国家「我が黄金のベンガルよ」も、この運動の渦中で作詞された曲である。
その後、反対運動の激化によりベンガル分割令は撤回されるが、タゴールは政治闘争の前線から身を引き、1912年にはイギリス旅行へと出かけている。そこで現地の芸術家——とりわけロマン派詩人ウィリアム・イェイツ——に激賞をもって迎えられたことで、『ギタンジャリ』の英語版が刊行されたのである。1913年のノーベル文学賞受賞は、この詩集によるところが大きい。いわばタゴールとは、東洋と西洋のはざまで見出された詩人なのである。
さらに、タゴールは1916年に来日しており、東京帝国大学や慶應義塾大学などで講演を行っている。そこで日本の工業化や全体主義を手厳しく批判し、一部の知識人から反感を買う結果となった。とはいえ、このときのタゴールが考えていたのは西洋文明の否定ではない。彼はインド思想にもとづいて、どこまでも西洋と東洋の調和を、世界平和の実現を願っていたのである。
『タゴール・ソングス』では、外国人労働者を規制するトランプ政権に対して、インド国民がデモを行う様子が映し出されている。自国だけでなく、外国政府に向かってもはっきり批判の矛先を向けるあたり、やはり彼らの遺伝子には、タゴールの思想が韻律とともに刻み込まれているように思える。
愛するひとを待っている
子どもから大人まで、教師からシンガーまで。さまざまなタゴール・ソングの歌い手をとらえていくカメラは、やがてひとりの女性に焦点を結ぶことになる。19歳の大学生オノンナだ。見た目は派手、友人と遊ぶ姿は当世風の彼女だが、どうやら心に一抹の物足りなさを感じているらしい。そんなとき、幼少期から読み聞かされてきたタゴールの言葉に惹かれ、その歌を真剣に学ぼうとするのである。
そんなオノンナが、先ほども触れた詩集『ギタンジャリ』の一節を読み上げる場面がある。ドキュメンタリーとしての構成美も含めて、非常に印象深い箇所だ。
わたしは ひたすら愛するひとを待っている——ついには その手に この身をゆだねるために。そのために こんなにも遅くなり、こんなにも怠惰の罪を犯してしまったのです。
人々は 規則や掟をもって来て わたしをがんじがらめに縛ろうとしますが、わたしはいつも それを避けて通ります。わたしは ひたすら愛するひとを待っている——ついには その手に この身をゆだねるために。
人びとは わたしをとがめ 軽薄よばわりをいたします。たしかに 人びとの非難はもっともです。『ギタンジャリ』17章(レグルス文庫・森本達雄訳)。
ここでタゴールが言祝いでいる「愛するひと」とは、一義的に言えば「神」のことだろう。無限なるもの、超越的なものへの憧憬は、彼の詩に流れる通奏低音である。だが、21世紀を生きるオノンナにとって、この詩は宗教的というより、もっと異なる意味を持っている。それは依然として男性優位の社会が続くインドで、女性の「自立」を高らかにうたい上げているのである。
事実、それに続く場面で、クラブに足を運んだ彼女は、その遅い帰りを心配する父親と激しい論戦を繰り広げる。父親にしてみれば、まだ男女同権が達成されていないインドで、女性が夜遊びをすることは危険極まりないのだろう。だが、オノンナの視線は19歳と思えぬほどに揺らぐことがない。彼女はタゴールのように、自分の意志で自由な道を歩んでいこうとしている。タゴール・ソングの旋律がさまざまに変奏されてきたように(劇中ではラッパーまで登場する)、その詩の解釈も時代に即して変化しているのである。
さて、タゴールの言葉から強靭な思想を汲みとったオノンナは、この詩人の足取りを追って、みずからも見聞の旅に出る。つかの間の出会いと別れのなかで、タゴール・ソングが最も抒情的な輝きを放つのは、まさにこの瞬間である。たとえ100年の時を経たとしても、あるいは誕生の地を遠く離れたとしても、その歌は万人の心に忘れえぬものとして、美しい残響音をとどめていくのだ。
最後にひとつ。本作はコロナ禍によって劇場公開が叶わず、一時的に「仮設の映画館」で上映されることになった。いま、パンデミックの終息を俟たずして、この世界は政治的にも経済的にも、東西に分断されようとしている(まるで冷戦時代の亡霊がよみがえったかのように)。その韻律とともに受け継がれてきたタゴールの思想は、文化や宗教の対立を超えて、私たちに強い自立をうながしていくはずだ。『タゴール・ソングス』という希望に満ちた作品が——その詩聖の言葉と同様に——あまねく翻訳されていくことを願ってやまない。
参考文献
ラビンドラナート・タゴール『ギタンジャリ』森本達雄訳、第三文明社、1994年。
関連作品:『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999年)
2018年には『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス』が公開され、その後のメンバーが再結集する様子が描かれた。キューバ音楽の魅力を発見する作品でもあり、キューバという国を深く知れる作品でもあり、老いて花を咲かせる者たちの人生賛歌でもある。あわせて鑑賞したい。