
・監督自身が出演していることもあり、自伝的な要素も多分に含まれている。
・ラストの「山登り」は、もはやキム・ギドクという男の壮大なドキュメンタリー
『春夏秋冬そして春』作品概要
鬼才キム・ギドク監督の9作目『春夏秋冬そして春』(Spring, Summer, Fall, Winter... and Spring)は2003年に公開されました。韓国国内での興行は振るいませんでしたが、大鐘賞では最優秀作品賞を受賞。2004年年に米国で配給されたところ注目を集め、現在ではギドク監督の代表作の一つに数え上げられています。
主要キャストとしては、主人公の青年時代を『受取人不明』(2001年)のキム・ヨンミンが演じたほか、壮年時代をキム・ギドク自身が演じています。
物語は四季に沿って4章+1章の構成になっており、人里離れた庵で育った主人公の生涯が雄大な自然とともに描かれます。
『春夏秋冬そして春』あらすじ
山奥の湖に浮かぶ庵を舞台に、主人公の男の人生が四季の流れに沿った5つの断章で綴られていきます。
第1章「春」では、庵で育った主人公が興味本位で生き物を殺してしまい、師である老僧から罰を受ける様子が描かれます。自分が魚やカエルにしたように、体に重い石を括りつけられると、彼は自分の犯した罪を自覚して涙を流します。
第2章「夏」では、少年となった主人公の初恋が描かれます。彼は病の治療のために庵を訪れた少女と恋に落ちるのですが、その関係は老僧の知るところとなっていまいます。少女のことを忘れられない彼は、自らの足で庵を去ることを決めるのでした。
第3章「秋」では、青年となった主人公が庵へと戻ってきます。彼は浮気をした妻を殺害し、警察に追われている身でした。怒りを抑えきれないかつての弟子に対して、老僧は庵の木に写経を彫ることを命じます。
第4章「冬」では、罪を償った主人公が再び庵に戻ってきます。すでに老僧はこの世を去っていましたが、凍り付いた湖の中で彼は一人修行に励みます。そこへ突然の訪問者が現れるのでした……。
季節は巡り、再び「春」を迎えて物語は幕を閉じます。
『春夏秋冬そして春』解説:ギドクによる原罪の清算
他に類を見ない宗教性
海外、特に米国で高い評価を受けた作品です。その仏教観が西洋人の眼鏡にかなったことも理由の一つですが、日本人の目から見ても本作の宗教的イメージは独創性に富んでいます。
まず目に留まるのは舞台装置。人里離れた山奥に湖が広がっているのですが(ロケ地は周王山国立公園という場所だそうです)、その湖面に浮かぶ小さな庵が舞台です。5つの断章で綴られる主人公の物語は、すべてこの揺れ動く庵を中心に描かれることになります。
社会的に見れば寺院というのは聖域〈アジール〉であり、権力が及ばない特別な場所です。本作の庵も例外ではなく、第3章「秋」でやって来る刑事たちは、殺人を犯した主人公に一時の猶予を与える訳です。
と同時に、この庵の持っている揺らぎは無常観を体現しているように感じられます。第2章「夏」の中で主人公が経験することになる淡い恋。彼が治療に来た少女と関係を持ったことを知り、老僧は忠告することになります。「欲望は執着を生み、執着は殺意を生むだろう」と。その予告通り主人公は浮気をした彼女を殺し、すべてを失ってしまうのでした。
同様に宗教的なイメージとして描かれているのが、作中で主人公が背負うことになる石です。第1章「春」の彼は生き物の命を弄び、その罰として老僧から体に石を括りつけられます。その後、第4章「冬」で壮年となった主人公はもう一度この石を背負って山を登り、自らの罪を償うことになります。
ここで描かれる石は、仏教的というよりキリスト教的な原罪を想起させるモチーフです。実際、ギドク監督は20代の頃に牧師を目指し、神学校に通っていたことで知られています。その宗教的なバックグラウンドが、本作の"いわく言い難い"独創的なイメージを作り上げているのかもしれません。
セルフイメージの奔流
この記事を書いた2020年2月に『名もなき生涯』が公開されましたが、本作の世界観はテレンス・マリック監督に通じるものがあるかもしれません。
それぞれの章を通して主人公は自我に芽生え(春)、他者と出会い(夏)、すべてを失って(秋)、再び自分と向き合います(冬)。章ごとに異なる役者が主人公を演じる中、最後に登場するのはキム・ギドク自身です。
ここに本作の自伝的な傾向を認めることは難しくないかもしれません。社会とは隔絶された空間で原罪を清算する男の姿は、キム・ギドクなりの総括と考えることもできるはずです。
こんな風に考えるのは、この『春夏秋冬そして春』を一つの契機として彼のフィルモグラフィーが変化したように感じられるからです。ギドク監督が初期の作品で描いたのは、何らかの形で社会から疎外された寡黙な人間の姿でした。例えば『魚と寝る女』(2000年)で恋敵に復讐をする釣り堀の女管理人であったり、『受取人不明』(2001年)で駐留米軍の抑圧に抵抗する混血の少年であったり、はたまた『悪い男』(2001年)で一目惚れした女を娼婦に貶めるヤクザであったり……。
彼らは総じて通常の方法でのコミュニケーションを図ることができず、その代わりにサディスティック/マゾヒスティックな暴力を用いることになります。社会の外側に立つ彼らにとって、ただ肉体的な苦痛だけが現実の世界と接触する手段なのです。
原罪の清算
ギドク監督が初期の暴力性を反省したということではありませんが(確かに大衆的な批判は受けましたが)、それを乗り越えようとしたとは十分に考えられます。先ほども触れたように、主人公が背負うことになる"石"は原罪のイメージと重なっています。第4章でその石を背負うことになった監督は、表現者として自己の可能性を切り開こうとしたのかもしれません。
事実として、本作の後に制作された『サマリア』や『うつせみ』(ともに2004年)では、サディズムやマゾヒズムの主題は鳴りを潜めることになります。と同時に、登場人物たちはセックスや放浪の旅を通して"救済"されていくことになります。初期作品とは異なる形で、彼らは社会と向き合っていくことになるのです。
いずれにせよ、本作における最大の見せ場はこのキム・ギドクの「山登り」にあると言っても過言ではありません。「アリラン」が流れる中で主人公は重たい石と仏像を抱え、上半身裸で雪山を登ることになります。
ちなみに、この場面は当初の脚本にはなかったもので、ギドク監督が撮影中に思いついたアイデアのようです。その時の気温は氷点下。スタッフがあっけにとられる中、彼はこの突拍子もない考えを実行に移したのだとか。劇中と同じように石を引きずること4時間(スタッフもカメラを担ぐこと4時間)、ついに一行は周王山の山頂へと到達するのでした。
この場面に限って言えば、もはや本作はセルフドキュメンタリーの様相を呈しています。役を抜け出したキム・ギドクが眺める絶景は見逃すことができません。
関連作品:『夢』(1990年)
80歳を迎えた巨匠・黒澤明が発表した作品。幻想的な8つのエピソードからなるオムニバスです。キム・ギドクは瞑想をしている中で『春夏秋冬そして春』のアイデアを思い付いたそうですが、黒澤明は夢の中で本作の着想を得たと語っています。
どちらも、監督の自伝的な作品といえるかもしれません。もっとも、ギドク監督の場合は43歳でこれを撮ってしまった訳ですが……。