
『サマリア』作品概要
韓国映画の鬼才、キム・ギドク監督10番目の作品として『サマリア』(사마리아:Samaria)は公開されました。前年の『春夏秋冬そして春』(2003年)が米国で成功を収めたギドク監督。このサマリアもヴェネツィア国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞し、その後も破竹の勢いで傑作を生み出していきます。
ちなみに、2000年代に製作された映画は実に12本(総監督を務めた『リアル・フィクション』を含む)。早撮りの監督としてはスティーブン・スピルバーグやクリント・イーストウッドが知られていますが、ギドク監督の場合は脚本も自身で手掛けています。撮影手法もさることながら、並みの創作意欲では達成できない作品数といえます。
キャストとして、主人公の女子高生ヨジンを演じるのはクァク・チミン。本作で釜山映画批評家賞の新人女優賞を獲得し、その後はグラビアモデルとしても活躍することになります。
また、その親友チェヨンを演じるのはハン・ヨレム。ギドク監督の次作『弓』(2005年)でも妖艶な少女を演じることになります。
上映時間95分の映画ながら、物語は3つのパートに分かれており、それぞれ「バスミルダ」「サマリア」「ソナタ」の題が付されています。
『サマリア』あらすじ
女子高生ヨジンとチェヨンの二人は、ヨーロッパ旅行の費用を稼ぐために援助交際を始めます。ヨジンはインターネットを通して客と約束を取り付け、実際に男と会うのはチェヨンの役目でした。
ヨジンは親友の体が男に汚されることを心配しますが、当のチェヨンは笑顔を絶やさず、様々な職業の男たちと出会うことを楽しんでいる様子でした。
ある日、ヨジンはいつものように、チェヨンが客の男と入ったホテルを見張っていました。そこに突如として押し入る警官。追い詰められたチェヨンはヨジンに笑顔を向け、部屋の窓から飛び降りるのでした。
間もなくしてチェヨンは息を引き取ります。親友を失って悲嘆に暮れる中、ヨジンは彼女の思いを継ぐことを決意します。これまでチェヨンが出会ってきた客たちと性交し、貰った金を順に返していくヨジン。
彼女はチェヨンが目指していたバスミルダ(インドの仏教信者)のように、男と寝ることによって幸福をもたらす存在になろうとしていたのです。
ところが、そんなヨジンが客と会っている現場を、彼女の父ヨンギが目撃してしまいます。動揺を隠しきれない彼は、客の男たちを問い詰めていくのでした。
『サマリア』解説
第1章「バスミルダ」
ヨーロッパへの旅行費用を稼ぐために、高校生二人がチャットを使って援助交際をする物語。これだけ聞くと「情報社会によって身体の価値が失われた」なんて言説も飛び出しそうですが、キム・ギドク監督の意図は正反対。この作品は肉体を軽視しているどころか、むしろ肉体を通して他者とのコミュニケーションを試みていく物語です。
具体的に見ていきましょう。天真爛漫な少女チェヨンは、自らをインドに伝わる仏教徒の女「バスミルダ」と呼び、逸話のようにセックスを通して男を幸福にしようとします。なんだか浮世離れして見えますが、実際その通りで、彼女には明らかに脚本上のリアリティが欠けています。
チェヨンには家族がいるかどうかも不明で、ヨジン以外の人間と直接話をしている場面も登場しない。援助交際という社会的な主題を扱っている作品にもかかわらず、このチェヨンだけは現実的な強度を保っていない訳です。こうも観念的なキャラクターとして描かれる彼女が物語の"異物"となるのは当たり前で(注)、早々に悲劇の死を迎えてしまうことになります。
といっても、キム・ギドク監督がチェヨンのように観念的なキャラクターを好んでいることは確かです。演じたハン・ヨレムは監督の目にも留まったのか、次回作『弓』で"ひたすらに"浮世離れしたヒロインを演じることになります。
第二幕「サマリア」
チェヨンが命を落としたことにより、物語の第2章が幕を開けます。ひとり残されたヨジンは、チェヨンが稼いだ金を客に返すことで、援助交際に加担した罪を償おうとします。
奇妙なのは、彼女が単に金を付き返すだけでなく、ふたたび客の男たちと関係を、それも無償の関係を結んでいく点にあります。ヨジンがチェヨンの衣鉢を継ぎ、自ら救済者になろうとしていることは明らかです。チェヨンが目指していた「バスミルダ」となることで、ユジンは援助交際という罪そのものを清算しようとしているように感じられます。
実際、少女趣味の男たちはヨジンと寝ることで幸福を得ることになります。金銭のやり取りがなされていない以上、男たちに罪の意識は芽生えません。「サマリア」というタイトルが象徴しているように、図らずも彼女は「善きサマリア人」として、キリスト教的な隣人愛の精神を体現してしまうことになります。
「善きサマリア人」とは
『新約聖書』の「ルカ福音書」に書かれているエピソード。律法学者と話をしていたイエスが「善きサマリア人」の話をします。あるエルサレム人が追いはぎに襲われ、瀕死の状態で道に倒れてしまった。たまたま通りかかった祭司も、レビ人も、みな見ない振りをして通り過ぎていく。そんな中、旅をしていたサマリア人が彼を助けて宿に連れていった。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが瀕死の人の隣人になったと思うか」。律法学者は言います。「その人を助けた人です」と。
ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
第三章「ソナタ」
とはいえ、客の男たちの幸福が社会に認められることは絶対にありません。もしも認められるのだとすれば、ユジンの自己犠牲が正当化されることになってしまいます。それはこの『サマリア』という作品が、女性を抑圧する構造を持っていることになってしまう。事実として、ギドク作品はそうしたフェミニズムの厳しい批判の目にさらされてきた訳です。
したがって、物語は自ずと社会的な者の登場を待つことになります。ユジンの父ヨンギは刑事であり、この歪んだ社会構造を正すには適役。彼は客の男たちを捕まえ、彼らに自身が犯した罪を自覚させていきます。
ちなみに、第3幕のタイトル「ソナタ」とは現代(ヒュンダイ)が発売している自動車の名前。ヨジンとヨンギの親子はこのソナタに乗り、都会を離れて母親の墓参りに出かけます。
そこで亡き母親と向き合い、自らの罪を自覚したヨジン(その心理は夢によって表現されます)は、ソナタを乗りこなすことで現代社会へと組み込まれていきます。別の言い方をすれば、彼女はセックスをする身体を捨て去り、労働する身体を手に入れます。
詳しくは語りませんが、最後にはギドク作品の中でも一二を争うほど美しいロングショットが映し出されることになります。まだ作品を観ていない方も、このラストは必見です。
関連作品:『4ヶ月、3週と2日』
少女二人のバディ・ムービーつながりで。ルーマニア出身の映画監督クリスティアン・ムンジウによる2007年の映画です。カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作。
ルーマニアの街で暮らす大学生が主人公なのですが、彼女のルームメイトの妊娠が発覚し、違法な中絶手術を受けるために奔走する物語です、
というのも物語で描かれる1980年代のルーマニアにおいて、中絶手術は基本的に違法でした。宗教的・倫理的な問題というよりも、出生率を高めようとするチャウシェスク政権の思惑があった訳です。
その結果、理由があって子を産むことができない女性は、劇中のような困難に直面し、秘密裏の手術を受けた中には死亡する者も少なくありませんでした。
こうした抑圧の歴史を背景として『4ヶ月、3週と2日』をぜひ鑑賞してください。