
『嘆きのピエタ』作品概要
1996年のデビュー作『鰐~ワニ~』以来ハイペースに作品を発表してきたキム・ギドク監督ですが、そのキャリアは2008年の『悲夢』で一度中断されています。撮影中の事故で女優が命を落としかけたことが原因でした。
この事故をきっかけにギドク監督は3年間の隠遁生活を送りますが、その後ドキュメンタリー映画『アリラン』と実験映画『アーメン』(いずれも2011年)で再びカメラを手に取ります。そして完全な復帰作として制作されたのが、2012年の『嘆きのピエタ』(피에타:Pietà)です。
劇場公開に先駆け、ヴェネツィア国際映画祭で上映。韓国映画初となる金獅子賞を受賞し、ギドク監督の新たな代表作となりました。
主要キャストとして、主人公ガンドを演じたのはイ・ジョンジン。モデル出身で、デビュー当時はペ・ヨンジュンに似ていると話題に。本作の後はドラマ『百年の遺産』(2013年)などに出演しています。
また、ガンドの母を名乗る女性ミソンをチョ・ミソンが演じ、韓国で最も権威のある大鐘賞では主演女優賞を獲得しています。
闇金の取り立て屋をしている冷酷無比な男ガンドと、彼の前に突然姿を現した母親。二人の奇妙な関係を描いた作品です。
『嘆きのピエタ』あらすじ
闇金の取り立て屋をしている孤独な男ガンド。彼は滞納する債務者を冷酷に痛めつけ、障害を負わせることで下りた保険金を回収していました。
ある日、彼の家に見ず知らずの中年女性が押しかけてきます。彼女は自らをガンドの母親ミソンと名乗り、これまで彼と会わなかったことを詫びるのでした。
ひざまずいて許しを請う彼女を冷たく突き放し、ガンドは取り立て屋の仕事を淡々とこなしていきます。彼が債務者を痛めつける様子を、黙って見つめるミソン。
怒りに駆られたガンドは自身の体の肉片をミソンに食べさせ、無慈悲に犯します。それでも彼を受け入れようとするミソンを目にし、ガンドの態度にも変化が見え始めました。
ついにガンドはミソンを母として認め、二人は温かい絆で結ばれます。しかし、ミソンには何か内に秘める思いがあるようでした。
『嘆きのピエタ』解説
センセーショナルな復活作
1996年のデビュー以来ほぼ一年に一本のペースで作品を発表し続けてきたキム・ギドク監督ですが、2008年からの3年間はスランプに陥り、山で隠遁生活を送っていました。その後セルフ・ドキュメンタリー作品などを経て創作意欲を取り戻した彼は、この『嘆きのピエタ』で見事なカムバックを果たします。
復活作ということで、初心に立ち返る意図もあったのかもしれません。ミニマルで象徴的な構図とサディスティックな暴力表現は、初期の『魚と寝る女』(2000年)や『悪い男』(2001年)を想起させるものがあります。
同時に、本作は監督の宗教観が如実に現れている作品でもあります。青年時代は神学校に通い、牧師になることを目指していたというキム・ギドク。原点回帰をするにあたって宗教的な主題を選んだというのは、少なからず意義のあることだったのでしょう。
「ピエタ」が意味する宗教性
タイトルにある「ピエタ」とは、キリストを抱きかかえる聖母マリアの像のこと。最も知られているのはミケランジェロの作品で、ギドク監督もこのバチカンのピエタ像からインスピレーションを受けたと語っています。
ガンドの前に姿を現す女性ミソンが、この聖母のイメージと重ねられていることは言うまでもありません。ガンドの行為をすべて受け入れる彼女の母性は、どこか宗教的であるようにも感じられます。
印象的なショットはいくつか挙げられますが、例えばガンドと出会ったミソンが部屋に押し入る場面。無理やり扉へ手を差し入れた彼女は、ただ黙って部屋の片づけを始めるのです。
初めて訪れたにもかかわらず、そこは勝手知ったる他人の家。理由は分かりませんが、彼女はすべてを知っているかのように振る舞います。目には強固な意志を湛え、寸毫の疑念すら浮かべずに、ミソンは母としての正当な場所に立とうとする訳です。
ギドク監督の脚本はけっしてロジカルではありませんが、彼女の演技は理屈抜きで物語を支えています。というよりも、そうしたロジックをねじ伏せてしまうという意味でこそ、彼女は宗教的な存在であるように思います。チョ・ミソンという女優の演技力と、キム・ギドクという監督の采配には脱帽するしかありません。
ミソンの宗教性と人間性
しかし、物語の中盤から事態は急展開をみせることになります。核心部分に触れるので詳述は避けますが、彼女は単に母なる存在としてガンドの前に現れた訳ではありませんでした。その心のうちに秘めた意図が明らかとなり、私たちは大きな衝撃を受けることになります。
この展開によって、彼女の持っていた母性は失われてしまうのでしょうか? いや、それが何も変わらないんです。その黒く濁った真意が明らかになっても、不思議なことに彼女の魅力は損なわれない。実際のミソンはなかなか理知的な策士なのですが、それでも彼女の透徹した眼差しを見ていると、そこに神秘性を感じざるを得ません。
印象論になってしまうのですが、この作品を何度観返したとしても彼女の神秘性は保たれている気がします。結末を知っている以上、序盤のミソンには愛情などなかったとしか考えられない。にもかかわらず、彼女は相変わらず宗教的な存在で、ガンドに慈悲の心を持っているように見えてしまう。
一般的などんでん返しの作品であれば、真相を知った二度目は何かが変わって見える訳です。ところが『嘆きのピエタ』は何も変わらない。何も変わらないように思えることが、逆に怖ろしいと感じてしまう。ミソンは徹頭徹尾、ピエタ=聖母としてガンドに慈悲を与え続けているのです。