『たかが世界の終わり』(グザヴィエ・ドラン、2016年)映画のあらすじと解説
  • グザヴィエ・ドラン監督の6作目で、カンヌ国際映画祭グランプリ(監督賞)獲得。
  • 自分の「死」を伝えるために、12年ぶりの帰郷を果たした劇作家の姿を描く。
  • オデュッセウスのような遍歴の果てに、旅の終わりを伝えられない静かな男。

『たかが世界の終わり』作品概要

カナダの若き俊英、グザヴィエ・ドラン。その6本目の作品『たかが世界の終わり』(Juste la fin du monde)は2016年に公開されました。

原作はジャン=リュック・ラガルスによる同名戯曲。ラガルスは1970年代より活躍し、エイズにより38歳の若さで急逝したフランスの劇作家です。『たかが世界の終わり』は1990年に書かれ、彼の他の作品と同じよううに、死後になってから評価されることになりました。

キャストとして、主人公の劇作家・ルイ役にギャスパー・ウリエル。『ハンニバル・ライジング』(07年)の若きレクター博士を演じたほか、『SAINT LAURENT/サンローラン』(14年)ではファッションデザイナーであるイヴ・サン=ローランの役も。

母親のマルティーヌ役にはナタリー・バイ。フランソワ・トリュフォーの『映画に愛をこめてアメリカの夜』(73年)や、ジャン=リュック・ゴダールの『ゴダールの探偵』(73年)にも出演した名女優。ドランの作品には『わたしはロランス』(12年)以来の出演です。

兄のアントワーヌ役はヴァンサン・カッセル。代表作に『オーシャンズ』シリーズ(04年~)や『ジェイソン・ボーン』(16年)など。

その妻のカトリーヌ役にはマリオン・コティヤール。『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』(07年)でピアフを熱演し、アカデミー主演女優賞を受賞しています。その他の作品として、ダルデンヌ兄弟の『サンドラの週末』(14年)や、クリストファー・ノーラン監督『インセプション』など。

さらに、妹のシュザンヌ役にはレア・セデゥ。カンヌ国際映画祭パルムドールに輝いた『アデル、ブルーは熱い色』(13年)の演技で注目を集め、クエンティン・タランティーノ監督『イングロリアス・アスターズ』や『007 スペクター』(ボンドガールとして)など、世界的な活躍を見せています。

自らの「死」を伝えるべく、家族の待つ故郷へ12年ぶりに帰った劇作家。たった1日の出来事を通して、家族の不和と不滅の愛が描かれます。

『たかが世界の終わり』あらすじ

著名な劇作家のルイは、12年ぶりに家族のもとへ帰郷を果たします。自分がもうすぐ死ぬことを伝えるために……。

母のマルティーヌは息子との再会を喜び、得意の手料理をこしらえます。妹のシュザンヌも幼い頃に別れたきりでしたが、それでも温かくルイを迎えてくれました。

しかし、兄のアントワーヌは素っ気ない態度。その妻のカトリーヌも、初対面のルイに落ち着かない様子を見せます。

テーブルを囲んで食事が開かれますが、皆どこか気まずい雰囲気で、ルイは秘めた思いを打ち明けることができません。

やがてデザートの時を迎え、ルイは意を決して口を開こうとしますが……。張り詰めていた糸は切れ、アントワーヌの怒りは沸点へと達してしまいます。

『たかが世界の終わり』解説

オデュッセウスは眠れない

放蕩息子の帰還。いわゆる『オデュッセウス』的な旅路の果ての果てにある物語です。帰郷した英雄オデュッセウスを待ち受けていたのは、妻ペネロペイアに群がる求婚者でしたが、本作のルイを待ち受けていたのは家族との軋轢でした。

死んだことにされていたオデュッセウスと、自らの死を伝えるために帰ったルイ。一見すると対照的に思えますが、孤独な遍歴を重ねてきた男が、最期に居場所を見出すという意味で、両者には共通点があります。

ここで戯れに、ルイ=オデュッセウスの放浪はまだ終わってないのだ、と考えてみることもできます。物語の時代設定は不明瞭で、場所もどこだか分からない。街の人々は彼によそよそしい目を向け(それは『わたしはロランス』の冒頭を想起させます)、迎え入れられた家族には不和が生じる。居心地の悪さを感じたルイの視線は絶えず揺れ動き、結局、セピア色の追憶に浸ることしかできません。

オデュッセウスの名前は「憎まれ者」に由来しますが、ルイも兄アントワーヌから憎悪の対象となります。それは彼が同性愛者であるからなのか、あるいは出世した弟に嫉妬しているのか、ひょっとすると別の深い確執があるのかもしれません。

いずれにせよ、二人のあいだには決定的な亀裂が走っていて、それが鳩時計の不気味な音とともに、少しずつ、しかし確実に広がっていくのです。物語はたった半日の出来事を描いているに過ぎないのですが、その何気ない会話劇のなかで、彼を待ち受ける「死」の運命が幾度となく予感されることになります。

撮影監督アンドレ・トゥルパン

この会話劇に関して言えば、撮影監督であるアンドレ・トゥルパンが果たした役割は大きいでしょう。ドランとは『トム・アット・ザ・ファーム』(厳密に言えばアンドシーヌ「カレッジ・ボーイ」のMV)以降タッグを組んでいますが、作品を重ねるごとにドランの良き右腕となりつつあります(ヌーヴェルヴァーグにおけるラウール・クタールのような?)。

『胸騒ぎの恋人』では手持ち撮影による即興的な構図を多用したドランですが、本作では古典的なショット/切り返しショットが徹底されています。にもかかわらず、いや、だからこそであるのか、家族の対話にぎこちなさを感じてしまうのは流石としか言えません。

告白の失敗

こうした居心地の悪さのなかで、ついぞ自分に「死」が差し迫っていることを打ち明けられないルイ。その直接の原因が兄アントワーヌにあることは明らかなのですが、しかし、彼がいなければ万事快調に事が進んでいたのでしょうか?

いや、おそらく違います。仮に横暴な兄が家を空けて不在だったとしても、やはりルイの目線は宙をさまよい、その重たい口を開こうとしなかったはずです。結局のところ、彼は自分から家族と心理的な距離を置いているのであり、12年の歳月が家族とのあいだに回復不可能な断絶をもたらしているのです。

彼はオデュッセウス的な放浪者であり続けることしかできません。その意味でいえば、アントワーヌの暴言には一定の正当性があるとさえ思えます。

ひとつの事実として、終盤にアントワーヌから「このあと予定があるんだろ?」と尋ねられたルイは、その言葉をあっさりと引き継いでしまうことになります。予定があることにしたかったのでしょう、結局、彼はお茶を濁したま席を立ち上がるのです。詳述は避けますが、直後には大きな破局が訪れることになります。

ありていに言えば、ルイを告白に至らしめるだけの力は、最初からどこにも存在しなかったのです。そこには決定的に何かが欠けている。真に告白すべき相手が欠けているのです。

ルイが父と過ごした生家に、今では空き家として売りに出された家に興味を抱いていたのは、何にも増して示唆的であるように思えます。朧気にしか分からないものの、ルイは父に対する追憶の念にとらわれているのです。アントワーヌでは代わりが務まらない、父性の影を求めているのです。

母の存在と父の不在

なるほど、亡き父の『マイ・マザー』で鮮烈なデビューを飾ったグザヴィエ・ドランの作品に、「母」の形象を探すのは自然なことかもしれません。しかしながら、彼の物語における母親像が、つねに登場しない父親によって支えられていることも忘れるべきではありません。むしろ、作品世界の中心は「父の不在」にこそあるといえます。

『トム・アット・ザ・ファーム』でぽっかりと空いた亡父の席、『Mommy/マミー』で反感を買われる継父候補の弁護士、そして『たかが世界の終わり』の空き家。別にドランは片親ではないのですが(父は俳優のマヌエル・タドロス)、奇妙なことに、彼の多くの作品には父が登場しないのです。

ここでは少し足を速めて、父性とは「切断」の機能を持っているものだ、としておきます。息子を否定し、同時に再構成するような存在。実のところ、ルイはそれが叶わぬ夢と知りながらも、父に告白するため、父に許しを請うため、帰郷を果たしたのではないでしょうか。

関連作品:『歩いても 歩いても』(08年)


ザ・何も起きない会話劇。テレビドキュメンタリー出身の是枝裕和監督は、何よりも取りとめのない会話にこそ魅力があります。『歩いても 歩いても』はその最たる例でしょう。

兄の命日に帰省した主人公(阿部寛)と、母(樹木希林)や父(原田芳雄)を中心とする家族が過ごす1日を切り取った物語。事故死した兄をめぐって家族に不和が生じ、最後には絆を取り戻していくことになります。

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