
- ギドク監督の『春夏秋冬そして春』に出演したキム・ヨンミンが一人8役
- 「ミンジュ」とは殺された女子高生の名前であると同時に「民主」の意味も
- 激しい暴力描写を用いて、朝鮮戦争以降の現代韓国史を痛烈に風刺した
『殺されたミンジュ』作品概要
2014年、キム・ギドク監督20本目の作品として『殺されたミンジュ』(일대일:ONE ON ONE)は公開されました。監督・脚本・制作・撮影・編集のすべてをキム・ギドク自身で行った野心作です。
また、原題の「イルテイル」は「一対一」の意味。監督は「私たちが生きている社会は国民一人一人が尊重されている社会なのか?」という問いかけを込めたと語っています。
主演は『群盗』(2014年)のマ・ドンソク。その後は『新感染 ファイナル・エクスプレス』(2016年)などに出演しています。2020年にはマーベル製作『エターナルズ』にも出演予定とのこと。
さらに『受取人不明』や『春夏秋冬そして春』に出演したキム・ヨンミンが一人8役を演じたことでも話題となりました。
ある少女の殺人事件に関わった者たちが、7人組の謎の集団によって拉致され、拷問により自白を迫られるサスペンス。正義と悪の境界線は失われ、その結末は私たちの価値観を揺さぶることになります。
『殺されたミンジュ』あらすじ
ミンジュという名の女子高生が何者かに殺されました。それから1年後、「シャドーズ」と名乗る謎の集団が、事件の容疑者を次々に拉致していきます。時には軍服、時には警官の格好に扮し、7人の容疑者を拷問し、自白を迫っていく「シャドーズ」の面々。
しかし、彼らの正体は何の変哲もない一般市民でした。恋人からDVに耐える女や、上司から罵倒される自動車修理工。米国に留学したものの、定職に就けず兄夫婦に養われているインテリ青年。いずれも社会から抑圧された人々であり、組織の活動を通じてその不満を晴らそうとしていました。
彼らを束ねるリーダーには、何か別の思惑がある様子。その残酷な拷問は次第に歯止めが利かなくなり、一部メンバーの反感も買うようになっていきます。
一方、拷問を受けた容疑者の一人である男は「シャドーズ」への復讐を計画していました。密かにメンバーを付け回し、彼らの正体を掴んでいく男。
果たしてリーダーの狙いは何なのか? そして容疑者たちはなぜミンジュを殺したのか? 正義と悪とが奇妙に交錯しながら、暴力の連鎖は続いていくのでした。
『殺されたミンジュ』解説
キム・ギドクが見つめる「民主主義」
題名の「ミンジュ」は冒頭で殺される女子高生の名前であると同時に「民主」の意味も持っています。キム・ギドク監督はインタビューの中で、民主主義が衰退した韓国の現状を嘆いていました。
本作は、韓国の現在の政治状況を比喩した物語です。民主主義国家だと言われていますが、実際には全くそうではなく、人々は愚かな状況を受け入れながら生きています。
ギドクが「比喩」と語るように(参考:MOVIE WALKER)、この作品は様々な象徴性に満ち溢れています。例えば、ミンジュ殺害の容疑者を次々に拉致していく「シャドーズ」の格好。軍服であったりヤクザであったり警官であったり、果ては国家情報院のスパイに扮したりするのですが、これは韓国の現代史に流れる抑圧者たちのイメージです。
つまり、彼らは無自覚のうちに民主主義を放棄し、都合7回にわたって「抑圧者」の歴史を繰り返してしまう訳です。これには「一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」と語ったマルクスも唖然とするよりほかにありません。いや、シャドーズのメンバーは軍服や警官の格好を"楽しんでいる"ようにも見えるので、マルクスの「喜劇」という言葉は正鵠を射ています。
歴史の「反復強迫」作用
フロイトの精神分析によると、人は無意識に幼児期のトラウマを繰り返すとされます(「反復強迫」)。子どもの頃に虐待を受けた親が、今度は自分の子どもを虐待してしまったりする訳です。こうした反復の例としてフロイトは幼児期の「いないいないばあ」遊びを挙げていましたが、シャドーズの場合はコスプレを通して歴史上のトラウマを反復してしまいます。
彼らは自らが憎んでいるはずの抑圧者へと歴史を遡行していってしまう。ミンジュを殺した容疑者たちと、徐々に近接していってしまうのです。暴力を辞さず、容疑者に罪の告白を迫る彼らの素振りを見ていると、正義と悪の対立は容易に瓦解してしまいます。
さらに言えば、上記の点において、キム・ヨンミンの一人8役は物語の上でもトリックスター的であるように感じます。彼はシャドーズのメンバーであると同時に、シャドーズに拷問を受けた容疑者であり、さらにシャドーズの各メンバーを抑圧する関係者としても登場するからです。
言い換えれば、彼は正義であり悪であり、その両者でさえあります。7回の拷問が繰り返されていく過程で、キム・ヨンミンというイメージは方々に増殖していき、最後には画面の中で区別がつかなくなっていきます。
全体主義とポピュリズム
物語の中盤以降、シャドーズのメンバーは暴力に対して反省的な態度を示すようになります。エスカレートするリーダーの拷問に嫌気がさし、集団は求心力を失ってしまう。そもそも彼らは烏合の衆であり、社会に不満を持った個人の集まりに過ぎません。コスプレというゲームにも飽きてしまい、各自が直面している喫緊の生活へと戻っていってしまいます。
ミンジュを殺した集団も、彼らに私刑を加えようとするシャドーズも、どちらも民主主義が退行している点では同じに見えます。けれども、厳密に言えば両者はそれぞれ異なる政治状況を比喩しています。つまり前者は全体主義的であり、後者はポピュリズム的です。
本作が公開されたのは2014年ですが、その後の世界にシャドーズ的な思想が蔓延していることは否めません。左派ポピュリズムが注目を集める昨今、その全てを一括りに論じることは不可能ですが、それでも本作が民主主義に警鐘を鳴らしていることは疑いを容れません。
全体主義には上意下達の規律がありますが、ポピュリズムは絶えず流動的で中心を持たない社会です。罪の告白をした後、ミンジュを殺した容疑者たちは自責の念に駆られることになります。そうでない場合、最後まで殺人の正当性を貫くことになります。どちらの場合も主体として責任を背負っている訳です。