『メビウス』(キム・ギドク、2013年)映画のあらすじと解説

『メビウス』概要

『メビウス』は2013年に公開された韓国映画です。監督は『サマリア』(2004年)のキム・ギドク。前作『嘆きのピエタ』(2013年)でベネツィア国際映画祭金獅子賞を獲得したギドク監督ですが、本作も同映画祭で上映されました(コンペティション部門外)。

主要キャストとして、ギドク作品でお馴染みのチョ・ジェヒョンと、当時15歳の若手俳優ソ・ヨンジュが出演。さらに『さよなら歌舞伎町』(2014年、廣木隆一監督)にも出演した女優のイ・ウヌが一人二役を演じています。

全編にわたり無言劇で展開される『メビウス』。母に性器を切断された息子と、その原因を作った父親の関係を描いた、哀切を極める物語です。

『メビウス』あらすじ

とある家族の惨劇から物語は幕を開けます。夫の浮気現場を目撃した母親は、ある晩寝室に忍び込み、彼の性器をナイフで切断しようとします。しかし、あと一歩のところで感付かれてしまい失敗。代わりに彼女が向かった先は、高校生になる息子の寝室でした。

彼女はベッドに潜り込むと、息子の性器を切り取り、狂気の表情で飲み込んで見せます。悶絶する息子と唖然とする父親を前に、ふらふらと家を出ていく母親。

残された父子の苦悩が始まります。父親は罪悪感に苛まれ、自ら去勢手術を受けることに。一方、男性器を失った息子は学校でいじめの標的にされてしまいます。

息子が食料品店に入ると、夫の浮気相手だった女がいました。彼女から誘惑されながらも、それに応えることができない息子。

店にやって来た不良が女を強姦しますが、息子は手を出すことができません。挙句、不良と一緒に強姦罪で逮捕されてしまいます。

独房に収監された息子のために、父親は性器なしでオーガズムを得る方法を調べます。インターネットで見つかった情報によれば、石を肌に擦り続けることで、射精と同等の快感が得られるというのです。

痛みに悶えながら、流血するまで肌を擦り続ける父親。ついに彼は射精することに成功し、その方法を独房にいる息子に伝えます。

快楽を取り戻した息子は、出所して食料品店の女のもとに向かいます。ようやく彼女との繋がりを得ることが出来た息子。しかし、その行為は次第にエスカレートしていくのでした。

やがて物語は、もう一つの惨劇を持って幕を閉じることになります。

『メビウス』解説:男根をめぐる父子の悲喜劇

シュールな無言劇

恋人を愛するあまり、その男性器を切り取ってしまったのは『愛のコリーダ』(1976年、大島渚監督)の主人公・阿部定でした。一方、こちらは切り取られた男性側の物語です。

すべての登場人物には名前がありません。ひとまず「母親」と呼ぶことにする女(イ・ウヌ)は、夫の浮気現場を目撃したことで怒りに駆られます。夜中に夫の寝室へ忍び込むと、彼の男性器をナイフで切断しようと試みる。しかし間一髪のところで夫は目を覚ましてしまい、代わりに彼女の矛先は息子へと向けられるわけです。

この時点で、この母親は狂人だと思われる人もいるかもしれません。確かに、本来責められるべきは浮気をした父親の方で、息子はその"とばっちり"を受けたに過ぎない。この理不尽な展開は、開始早々にシュールな笑いを誘ってしまいます。「この映画、コメディだっけ?」と。

しかし冷静に考えてみると、母親の凶行とその後の行動には合理性があります。つまり、彼女は夫の浮気に激怒しているのではなく、その浮気の原因となった「男の性欲」を許すことができない。だから父の浮気現場を思い出し、自慰行為に励んでいた息子の「男根」を切り取ってしまうわけです。

この象徴性に「家父長制社会で抑圧された女性」というようなフェミニズム的文脈を重ねることも可能でしょう。しかし、キム・ギドクという監督に通り一遍の社会批判の精神を読み取るのは、いささか無粋かもしれません。実際、本作の鮮烈なラストシーンを見れば、キム・ギドク監督が社会性などとは無縁の立ち位置にあることが分かるはずです。彼はひたすらに情念的な監督なのです。

一人二役のイ・ウヌ

と、ここまでは母親を中心に述べました。プロットの大部分は、家に残された父子を巡って展開されることになります。

男根を失った息子の前に現れるのは、父の不倫相手だった食料品店の店主でした。驚くべきことに、この女もイ・ウヌが演じています。猟奇的な母親から一転、初々しさの残る女性を巧みに演じ分けているので、ややもすると初見では気付かないかもしれません。

ギドク監督がここで一人二役を用いた理由は明らかでしょう。この女性は母親を代理するイメージとして登場しています。フロイトの精神分析には「エディプスコンプレックス」と呼ばれる概念がありますが、これは人間の根源的な欲求として、母親を手に入れようとする願望があることを示しています。母親が退場した代わりに、この女が息子の欲望の対象となるわけです。

とはいえ、息子は去勢された存在。愛したくとも愛せない男の哀しみは、本作が無言劇であることによって強調されます。

ここで描かれているのは文字通りの去勢ですが、多かれ少なかれ、そして男女問わず、私たちは去勢された存在です。誰もが自分を抑圧し、欲望を心の奥に押し込めて生きています。憧れの芸能人を手に入れることができないと知った時、人は諦念とともに代わりの恋人で満足を得るのです。

「代理」の監督キム・ギドク

「代わり」という言葉を使いましたが、キム・ギドクという監督は、まさに「代理」のイメージが相応しいように思います。『魚と寝る女』(2000年)の女は、好意を抱いた男を上手く愛せず、自分の代わりに売春婦を送ってしまうのうな人物です。あるいは『悪い男』(2001年)の主人公も、恋する女を売春婦に落とし、彼女が客と行為に及ぶ光景をこっそりと鑑賞するような男です。

本作『メビウス』もその例外ではなく、男根を失った息子は「代理」の方法でオーガズムを得ようとします。目を覆いたくなるほどマゾヒスティックな行為(ギドク作品にはお馴染みの表現ですが)によって女と繋がろうとする息子。もはや「コメディだっけ?」とは言わせないほどの気迫が伝わる場面です。

ただしこの作品、終盤に別の波乱が待っています。息子は失われた男根を取り戻し、家を飛び出した母親は帰ってくるのですが……。それで元の鞘には収まらないのがギドク節。先ほど「情念的な監督」と書きましたが、ラストは彼の湧き出る情念が画面全体に広がることになります。

あまりにも凄惨な結末を、その目で確かめてみてください。

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