作品のポイント
虚構の被膜に覆われた世界で、相対的な「近さ」と絶対的な「遠さ」が分かちがたく同居する。
小さな町の物語=歴史が綴られていく先で、とある女性の口から不意に発せられた時制の言葉。
『港町』概要
ドキュメンタリー作家の想田和弘は、「観察映画」と呼ばれる方法論を確立してきた。事前に作品テーマを決めず、対象をつぶさに観察しながら回されるカメラ。そして編集の際には、説明的なナレーション・テロップ・音楽の一切を使用しない。こうしたスタイルが徹底された作品は、この重層的な世界をすくい上げるようにして、そっと私たちの前に差し出してみせる。
『港町』(2018年)は、そんな観察映画の第7弾として公開された。今回の舞台となったのは岡山県瀬戸内海市の牛窓。瀬戸内海に面する小さな町で、監督の義母が生まれ育った場所でもある。
カメラは漁師の老人とともに船へと乗り込む。網で引き上げた魚は市場で卸され、町民のもとへと配達され……。その流通を追いかけていたカメラは、ひとりの老婆「クミさん」と遭遇する。今度は彼女が水先案内人となって、私たちは誘われるように路地を抜けていくだろう。やがてクミさんの口から、ありし日の記憶が語られる。
モノクロームの映像が綴る、海辺の叙景詩。
『港町』解説
「近さ」と「遠さ」の両義性
「観察映画」も8作目。その方法論も作品を重ねるごとに洗練されてきたが、それにしても、全編モノクロとは予想外の演出ではないだろうか。
そもそも、観察映画とはナレーションやテロップ、音楽を排するという意味において、いわば引き算の手法だった。だが、そのコンセプトは『演劇1・2』で大幅に拡張され、一部のシーンをまるごと無声にするという大胆な試みが行われた。この演出は、もはや引き算というよりも足し算に近い。観察映画の手法は、かなり柔軟に更新されてきたといえる。
ちなみに、想田監督は『演劇1・2』の無音処理について、結果として映像の虚構性を際立たせる効果をもたらした、と述べている( 『演劇 vs. 虚構』)。まったく同じことが『港町』にも言えるだろう。モノクロームの映像表現は、虚構のレベルを一段階引き上げることに寄与している。本作の舞台となる牛窓は、架空の町か、あるいは遠い過去の町のように見える。
だは、これは考えてみると奇妙な話だ。これまで観察映画があらわしてきたのは、カメラと被写体との「近さ」であったからである。それは屈託のない笑顔を見せる選挙候補者との近さであったし、モザイクを取り去った患者たちとの近さであったし、突如として港町にやって来た外国人労働者との近さであった。想田監督のカメラは、いずれの被写体とも寄り添うように、パーソナルスペースへと踏み込んできたのだった。それは虚構化された映像が生み出す絶対的な「遠さ」と、どこか相容れないように思える。
それゆえ、『港町』はフィルモグラフィーのなかでも破格の観察映画になったと言える。想田監督のカメラは過去に例を見ないほど親密であり、牛窓の人々は何にも増して世話焼きなのだが、その間には一枚の薄膜が隔たっている。カメラと被写体。二点の距離が近づけば近づくほど、モノクロームの虚構性が、絶対の障壁として際立ってしまう。もどかしいほどに、叫びたくなるほどに、私たちは銀幕の向こうの色彩が恋しくなってしまう。
誤解を招く前に述べておくと、このダブルバインドが作品の瑕疵であると指摘したいわけではない。むしろ『港町』は目頭が熱くなるほどに美しい作品だ。網を手繰り寄せる老漁師や、獲れた魚を捌く鮮魚店の主人、その配達に回る自称「後期高齢者」の女性。それらすべての布置が、偶発的な関係が愛おしく感じられる。
だが、それにもかかわらず、本作で描かれる牛窓は現実と遠く隔たった場所にある。そこに相対的な「近さ」と絶対的な「遠さ」が同居しているからこそ、私たちは眼前の情景を、いっそう尊いものとして感じるのである。
少し話は逸れるが、この「近さ」と「遠さ」の二重性は、極めて今日的な問題と言えるだろう。いま、肥大化した情報は現実にとって代わろうとしている。5GやVRといったイノベーションが作り出す新世界は、ちょっと手を伸ばせば地球の裏側にまで届いてしまうような、そんな「近さ」への可能性に満ちあふれているようだ。けれども、それは結局のところ幻想でしかない。どれほど現実に肉薄したところで、そのあいだには虚構の被膜が、「遠さ」の絶対性をともなって存在する。『港町』の映像は、そんな被膜を可視化する。
牛窓の物語=歴史を観察する
『港町』は牛窓の風景を虚構化する。言い換えれば、現実を切り取り、まったく別の文脈へと置き直す。だとすれば、本作のカメラが真に「観察」する対象も、その文脈のなかにある。
語り部となるのは、気さくなお婆ちゃん「クミさん」だ。継母によって4歳の頃に牛窓へ連れてこられたという彼女は、みずから「どこから来たのか分からん」と話すほどに、身寄りのない存在であることがうかがえる。
もちろん、それは独居老人をめぐる日本の社会問題を浮かび上がらせるのだが、それだけではない。彼女はこの牛窓という町自体の未来が、今まさに閉じようとしていることを教えてくれるのだ。近所のお婆ちゃんは心臓を患っているというのに、子どもたちは素知らぬ顔で町に戻ってこない。あの家もこの家も、みな空き家となってしまった。高台の上には大きな病院があって……。
かつて小学校だったその建物は、後に民宿となり、現在では病院になっているのだという。一見すると何気ない言葉のように思えるが、ここには牛窓の歩んできた道がうっすらと表出している。教育から観光業、そして医療福祉。考えてみれば、空恐ろしいことに、本作の風景ショットには、観察映画に本来あるべき子どもの姿が見えないのだ。
こうなると、私たちは『港町』のカメラが観察する真の対象を知ることになる。それはきっと、牛窓という土地の物語=歴史なのだろう。観光業を頼りとしながらも、少子高齢化が着実に進行する町。モノクロームの映像が作り出した虚構の被膜は、その儚さを伝える役割を果たしている。
映画の後半、高台から海を望むクミさんは、何の前触れもなく息子の話を始める。その息子は、障害を持っていることを理由に、福祉施設へ連れ去られてしまったという。耳を疑うような話だが、クミさんの目は透徹している。
息子を奪われた日のことは忘れない。それは「平成23年の2月16日」だった。その日付が発語された瞬間、長回しによって引き伸ばされていた時間がぴたりと静止する。なにせ、それまで本作の映像は明確な時制を指し示そうとせず、私たち観客を不定の時間のなかに置いていた。そこに突如として明確な時間性があらわれたのだ。モノクロームの虚構性を、その被膜を突き破り、冷たい現実が顔を覗かせる。私たちは彼女と牛窓の歴史が、疑う余地もなく存在することを痛感する……。
観察映画を観る度に、ロラン・バルトという作家のことを思い出す。彼はその晩年、偶発事(incident)という言葉に魅了されていた。それは取るに足らない偶然の出来事、あるいは瑣末事を意味するフランス語だ。想田和弘が映し出す世界は、まさにバルトが夢見たような、無数の偶発事によって満たされている。だが、そのなかに紛れ込んだ突発事(accident)が、期せずして出来事の記憶を掘り起こさせてしまうのだ。けだし観察映画とは、この偶発事と突発事のあわいに位置するドキュメンタリーと言えるだろう。これまでも、これからも。
関連作品:『老人と海』(1990年)
『映画 日本国憲法』(05年)のジャン・ユンカーマンによるドキュメンタリー。ヘミングウェイの文学世界を求めて、日本最西端・与那国島を訪れた監督。そこで出会ったのは、200キロもの巨大カジキを狙う老漁師だった。「サバニ」と呼ばれる小さな舟を巧みに操り、荒ぶる大海原に繰り出す老人。大自然と格闘する男の勇姿を、撮影クルーは長期にわたり密着取材する。
思わぬ不漁によって初年度はカジキが釣れず、撮影は翌年にまで引き延ばされた。過酷な自然を前にしても敬意を失わない老漁師は、まさに『老人と海』のサンチャゴそのもの。そんな彼と撮影クルーの情熱はついに実を結び、巨大なシロカワカジキが釣り上げられる。
本作の公開と前後して、老漁師は海へ還った。サバニを使って漁をする者は、もういない。