
- 中国映画の新星、ビー・ガンによる長編第2作。60分にわたる長回し&3Dの場面が話題に。
- 幻想的なカメラワークは、デジタル・シネマ時代における「幽霊」の存在を指し示す。
- 彼が呪文を唱えるとき、映像は物質的な価値を取り戻し、記憶のなかの恋愛は成就される。
『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』概要
『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』(地球最後的夜晚)は2018年に公開された中国映画です。監督は『凱里ブルース』(16年)で衝撃のデビューを飾ったビー・ガン。同作はロカルノ国際映画祭で上映され、新進監督賞および特別賞を受賞。若干26歳が見せた驚異の才能に、世界から注目が集まりました。
それから3年の歳月を経て発表された長編第2作が、本作『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ 』です。カンヌ国際映画祭「ある視点部門」や東京フィルメックスで上映された後、中国本土では2018年大晦日に満を持しての公開。たった一日で41億円の興行収入を記録し、アートハウス系の映画の歴史を塗り替えました。
主人公のルオを演じたのはホアン・ジエ。代表作のカンフー・アクション映画『ファイナル・マスター』(15年、シュ・ハオフォン監督)はVODでも観ることができます。
ヒロインのワン・チーウェンを演じたのはタン・ウェイ。2007年にアン・リー監督の『ラスト、コーション』の主演となったことで脚光を浴び、国際的な女優として活躍。その他の代表作にマイケル・マン監督の『ブラックハット』(15年)など。
『凱里ブルース』では40分にわたるワンシークエンスショットを試みたビー・ガンですが、今回のそれは60分に及びます。しかも当該シーンのみ3D(2D上映もあり)と、より深化したアイデアで観客を魅了します。
『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』あらすじ
父の死をきっかけに、20年ぶりの帰郷を果たすことになったルオ・ホンウ。故郷の凱里で彼が見つけたのは、一枚の古い写真でした。
そこには、ルオがかつて想いを寄せた女性ワン・チーウェンが写っています。当時、彼女は地元のヤクザに囲われた身でした。ルオの親友だった白猫は、その男のもとで殺されています。
彼女のイメージを追っていくうちに、気がつけばルオは見知らぬ村へと辿り着くのでした。そこには少年となった白猫の姿があり、チーウェンとよく似た女性、カイチンの姿があります。そしてまた、幼少のルオを捨てて駆け落ちした実母の姿も。
記憶と夢が溶け合う村で、ルオは幻想の旅を続けます……。
1989年、貴州省凱里市生まれ。中国映画界に颯爽と現れた新星、ビー・ガンの長編第2作です。限られた予算で撮影に臨んだ前作とは違い、本作では十全な資金を得ることができました。
『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』解説
3Dで描かれる圧倒的な映像美
アシスタントプロデューサーのシャルル・ギルバートは、ガス・ヴァンサントやグザヴィエ・ドラン作品にも携わってきた敏腕。さらに撮影監督として、ホウ・シャオシェン作品で知られる台湾のヤオ・ハンギや、アカデミー外国語映画賞ノミネート作『裸足の季節』で知られるフランスのダーヴィッド・シザレなどが参加しています。ヒロインに『ラスト、コーション』のタン・ウェイを迎え入れたことは、すでに述べた通りです。
この国際色豊かな布陣を揃え、ビー・ガンが取り組んだのは、作品の後半60分にわたるシークエンスショット(長回し)でした。しかも3D。前衛的な3D映画というとジャン=リュック・ゴダールの野心作『さらば、愛の言葉よ』が思い浮かびますが、本人の言によると、直接的にはアルフォンソ・キュアロンやアン・リーの作品を参考にしたそうです。
劇中、主人公のルオが劇場で3Dメガネをかける場面があり、そこから観客の3D体験が始まります。虚構的な記憶の旅。「映画と記憶の違いは何かといえば、映画はつねに偽物だ。だけど記憶には真実と嘘とが混在しています」というルオの台詞が示す通り、ルオは夢のなかで、昔の想い人にそっくりの女性と出会うことになります。
このシークエンスショットの効果は絶大で、ビー・ガンは独創的な映像空間を作り出すことに成功しています。作風は正反対ですが、その目的は前作と同じといえます。『凱里ブルース』でダンマイと呼ばれる記憶の街が描かれたように、『ロングデイズ・ジャーニー』でも監督の故郷である凱里の、パラレルな変異体が立ち現れるのです。
中国ミレニアル世代の作家
それと同時に、ビー・ガンの世界観は非常に現代的な印象を与えてくれます。この現代的、というのは何も撮影技術に関して言っているのではなく(たしかに一部ドローン撮影を駆使していますが)、あくまでも主題的なもの。端的にいえば、ビー・ガンによる記憶の旅は、彼が新時代の作家である事実をはっきりと証明しているように思えます。
そもそも、ビー・ガンはその経歴からして中国ミレニアル世代の申し子です。はじめ映画批評に興味を抱いた彼は、大学のテレビディレクター学科に入学。そこで「名作」と聞くアンドレイ・タルコフスキー監督の『ストーカー』を観たといいます。
予想以上に退屈で、毎日少しずつ再生し、2週間ほどかけて観終わったとか。そこからアート系の映画に目覚め、実習課題として映画を撮り始めました。先述した『凱里ブルース』のシークエンスショットは、好きだった「ウイイレ」をプレイするように俳優を配置したと、冗談交じりに語っています。
そんな彼が生み出す映像は、やはりインターネット的な性質を備えているように感じられます。俳優の身体を離れ、非現実の小さな村を縦横無尽に動き回るカメラ。その空間には記憶の断片が偏在しており、主人公は虚構を介して過去と対峙するのです。
アジア映画に現出する「幽霊性」
たとえば、それを「幽霊」と呼ぶことも可能でしょう。今日のデジタル・シネマに特有の脱人間的な表象。文字通り幽霊が登場するアピチャッポン・ウィーラセタクンの『ブンミおじさんの森』(10年)を好例として、近年のアジア映画に同時発生する「幽霊性」を見てとったのは、映画批評家の渡邉大輔です(以下参照)。
考えてみれば、前作『凱里ブルース』では正体不明の怪物「野人」の存在が仄めかされました。勝手気ままに振る舞うシークエンスショットは、この野人の視線を否応なしに感じさせるものです。それは渡邉が指摘するように、映像メディアにおける幽霊性の中心が時間性から空間性へと移行したことを示しています。これをもって、ビー・ガンを同時代の映像作家のなかに組み入れることは難しくありません。
となると、その幽霊的なシークエンスショットを通して描かれる「記憶」とはいったい何なのか、と思いを馳せたくなります。主人公のルオが一枚の写真をきっかけに思い出すことになる、ワン・チーウェンとの恋愛。写真の裏には連絡先が書かれており、ルオはそれに従って刑務所を訪問します。面会室で女囚から聞かされたのは、実母やワン・チーウェンの過去でした。
そして別れ際、女囚はルオに「家が回転する呪文」を授けます。その魔法を胸にしまったルオは、映画館からダンマイへと旅立つのです。亡き親友の「白猫」に導かれ、チーウェンと瓜二つのカイチンと邂逅し、今まさに家を離れようとする実母と出会う。そして最後に、ルオはカイチンの前で、あの呪文を口にする……。
ニューメディアの魔術
ここには、もう一つの別のストーリーラインを見出すことができます。写真から映画へ、そしてネットワークへと変遷するメディアの物語。言い換えれば、それは過去がアクチュアルなものとなり、新たな価値を持つようになる一連の過程です。写真から映画への移行によって、記憶は時間的な広がりを獲得し、映画からネットワークへの移行によって、今度は空間的な広がりを獲得しました。その先にあるのは、過去と現在がまったく同じ意味をもって世界に同居する、新たなメディア環境であるとはいえないでしょうか。
この点に関して、「詩人」ビー・ガンが物質世界のイメージに固執している事実は何より示唆的です。
人間酵素は執拗である。魂の酵素はまるで睡蓮のようだ。
『凱里ブルース』
夢が始まる。私の体は水素であり、私の記憶は石であるようだ。
『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』
ビー・ガンの描く夢の世界は、けっして観念的なものではありません。それは必ず物質世界の手触りをともなって立ち現れます。『ロングデイズ・ジャーニー』に溢れるイメージの数々。哀しみとともに齧られるリンゴ、親友との絆が再確認される卓球、そして暴力の現場となるビリヤード。これら物理的な接触のすべてが、あの秘跡のようなラストシーンを予感しています。そこで主人公は、記憶の恋人と、その身体と触れ合うことになるのです。
それは間違いなく魔術といえますが、私たちが手に入れようとしている魔術です。情報空間が現実と等価になった新時代を「魔法の世紀」と呼んだのは落合陽一でした。その世界では、個人の記憶(記録)をめぐる枠組みも、何らかの変容を被るに違いありません。
すでに述べた通り、本作が中国全土で公開されるにあたり、かなり大仰なマーケティングが行われました。「映画の終わりとともに、恋人と年越しの口づけを交わそう」。なるほど、たしかにビー・ガンのかけた魔術は強力だったといえます。映画館の観客たちが、失われた身体を取り戻すほどに。
関連作品:『ストーカー』(1979年)
夢との関連性でいえば、やはり本作の名前が最初に挙がります。ビー・ガンを映画狂に目覚めさせた、ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーの代表作です。
ちなみに、ウクライナ発のFPSゲーム「S.T.A.L.K.E.R.」は本作の影響を受け製作されたとされています。タルコフスキーによる夢幻の長回しは情報社会に通じている、というのは勘繰りすぎでしょうか。