『魚と寝る女』(キム・ギドク、2000年)映画のあらすじと解説

『魚と寝る女』作品概要

『魚と寝る女』(原題:섬)は2000年に公開された韓国映画です。『嘆きのピエタ』(2012年)などで知られるキム・ギドク監督の4本目の劇場作品であり、ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に出品されました。

韓国国内での興行成績は芳しくありませんでしたが、国際的には評価を受けることになり、彼の特異な作家性を世界に知らしめる契機となりました。ただし、ショッキングな場面が含まれることから、公開時には嘔吐したり気を失ったりする観客もいたとされています。

主演はソ・ジョンとキム・ヨソク。さらに『メビウス』(2013年)などでキム・ギドク作品の常連となるチョ・ジェヒョンも出演しています。

釣り堀に浮かぶ筏を舞台に、孤独な男と女が見せる倒錯した愛の関係を描きます。

『魚と寝る女』あらすじ

釣り堀の管理人であるヒジン。彼女の仕事は釣り人客をボートに乗せ、湖面に浮かぶコテージ付きの筏まで運ぶこと。さらに、客の求めに応じて食べ物や女を運んだり、自らも娼婦として体を売っています。

そんな釣り堀に、恋人を殺害して逃走中の男・ヒョンシクがやって来ます。しばらくは湖面で暮らすという彼に対し、次第に恋心を抱いていくヒジン。

ヒョンシクはそんな彼女を強引に襲いますが、逆に押し返されてしまいます。ヒジンは自分の代わりとして、一人の娼婦をヒョンシクの小屋に向かわせます。

ところが、その娼婦はヒョンシクに対して純粋な好意を寄せるようになってしまい、彼のもとに足しげく通うようになります。二人の親密な光景を前に、明らかに嫉妬した態度をとるヒジン。

ある日、釣り堀に検問の警官がやって来ます。追い詰められたヒョンシクは自ら命を絶とうとしますが、ヒジンの献身により間一髪のところを助けられるのでした。

ヒジンとヒョンシクの異常な愛が始まります。しかし、その愛は着実に破滅へと向かっていたのです。

『魚と寝る女』解説:サドマゾヒズムが交錯する果て

交錯するサド/マゾヒズム

湖を幽玄に走る舟、と聞けば溝口健二の『雨月物語』(1953年)を思い出しますが、それに劣らず『魚と寝る女』は幻想的な雰囲気を湛えています。

主人公の女ヒジンは全編を通して一言も話さないのですが(こうした人物はキム・ギドク作品に頻出します)湖にある釣り堀で管理人をしています。この釣り堀の舞台設定がまた秀逸で、湖面には小屋付きの筏がいくつも浮かんでいる。この筏で来客者は自由に釣りを楽しむわけです。

本作の原題「섬」は島を意味しますが、この色とりどりに塗られた筏小屋は、まさに釣り人たちの「島」です。ヒジンはそれぞれの島=筏小屋をボートで行き来し、釣り人に食事や釣り餌を与えます。それと同時に彼女は娼婦でもあり、客の求めに応じて体を売っている。その生活は明らかに困窮している様子がうかがえます。

ここには表現されているのは、サディズムとマゾヒズムの関係といえます(この主題もまたギドク作品に頻出します)。娼婦である上に誰とも口を利かないヒジンは、一見すると被虐的な立場にあると思えるかもしれません。しかし実際は反対で、釣り人たちの生殺与奪の権利は彼女にあります。彼女のボートがなければ、男たちは湖に取り残されたままだからです。

実際、彼女は『地獄の黙示録』並みのゲリラ戦を展開し、態度の悪い客に意趣返しをします。湖の中から顔を覗かせる姿は、もはやサイコスリラーとさえ言えます。

この釣り堀の中に、フラットな関係性はほとんど存在しません。訪れる女はみな娼婦か、金持ちに釣られた女です。一人で訪れるのは訳ありの男ばかり。唯一の例外として、ヒョンシクはヒジンが手配した一人の売春婦と親密になります。彼は女に金を渡そうとしますが、純粋な恋心を抱いている売春婦はその行為に腹を立てます。

そんな二人をヒジンが鋭い眼光で睨みつけるのは、そこに加虐者と被虐者の、いわば釣り人と魚の関係が成立しないからです。それは釣り堀のルールに反します。結局、ルールを無視した売春婦はヒジン=管理人の手によって排除されることになります。

近接する魚のイメージ

だからこそ、ヒジンとヒョンシクの恋も、加虐者(釣り人)と被虐者(魚)の関係にならざるを得ません。

ネタバレは避けますが、誰しもが顔を背けたくなる衝撃的なシーン(ヴェネツィア映画祭では観客が嘔吐しました)を経て、ヒョンシクは見事に「魚」となります。加虐者であるヒジンは彼を釣り上げることに成功し、二人は"かりそめ"の関係を結ぶのです。

しかし、この加虐者/被虐者の関係性は、いつだって転覆の危険性をはらんでいます。ヒジンは被虐者であることに耐えかねて、ヒョンシクに反旗を翻します。釣り上げたはずの魚は、釣り人のもとから逃げ出そうしてしまう。

その時ヒョンシクはどんな行動に出るでしょうか? 同じくネタバレになるので詳述しませんが、彼女もまた衝撃的な場面を経て「魚」になります。このクライマックスへと至る過程は、何というか……ギドク的としか呼べない力学があります。

これは逃げた男を追う女の話ではありません。釣り人/魚、加虐者/被虐者という対立は、どちらか一方に回収されてしまう。それは物語の摂理のようなものです。隣接する二つのイメージが描かれるとき、最終的には一つのイメージに収斂していまいます。

余談ですが、この構図はポン・ジュノ監督の『母なる証明』に近いものがあります。この作品は、知的障害の息子が逮捕された母親についての物語でした。母親は息子の冤罪を信じて独自捜査を進めますが、最後には彼女自身が狂気へと至ってしまう。理性/狂気のイメージが一つに回収される瞬間が、壮絶なショットで描かれることになります。

関連作品:『アトラント号』(1934年)

キム・ギドクは水中のショットを耽美的に撮りましたが、その源流を辿ればジャン・ヴィゴに行き着くように思います。この『アトラント号』における水のイメージは鮮烈で、一度観たら忘れられない作品となるはず。古い作品ですが、折角なので紹介しておきます。

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