
- 『うつせみ』や『嘆きのピエタ』で知られるキム・ギドク監督の記念すべき第1作。
- 漢江のほとりに暮らす浮浪者を主人公に、暴力と性と透き通るような愛の形象が描かれる。
- 徹底した悪のなかに美学を見出そうとするギドク監督のまなざしに注目。
『鰐〜ワニ〜』作品概要
『嘆きのピエタ』で知られるキム・ギドク監督の記念すべきデビュー作『鰐~ワニ~』(Crocodile)。韓国では1996年、日本では2007年に公開されました。
主演はチョ・ジェヒョン。キム・ギドク作品の”核”として、その後『ワイルド・アニマル』(97年)『魚となる女』(00年)『受取人不明』(01年)『悪い男』(01年)に出演することになります。
漢江の岸辺で生活する浮浪者ヨンペが、川に身を投げた女性ヒョンジョンを助けたことから始まる物語。キム・ギドクの描く暴力的な悪と鮮烈な詩情の世界が広がります。
『鰐〜ワニ〜』あらすじ
漢江の橋のたもとで暮らす浮浪者ヨンペ。仲間である老人と少年から「ワニ」と呼ばれる彼は、川に身を投げた自殺者から金目のものを回収しては生活の足しにしています。
ある日、ヨンペは川に身を投げた女性ヒョンジョンを助けることになります。ヨンペに容赦なく犯されるヒョンジョンでしたが、老人と少年に守られながら、一緒に橋のたもとで暮らすことになるのでした。
アコギな商売で金を稼ごうとするヨンペは、何をやっても上手くいかず、しまいには"ゆすり"の相手に返り討ちにされてしまいます。血を流して倒れるヨンペを介抱するヒョンジョン。人々や世の中に向かって呪詛を吐いていたヨンペは、ヒョンジョンと出会ったことで次第に態度を変えていくのでした。
ヒョンジョンが捨てられた恋人のことを思い続けていることを知り、ヨンペはその男に会いに行きます。またしても報復を受ける彼。そこに度重なる悲劇が襲い、ヨンペは地の底へと落ちていきます。
最後にヒョンジンとの愛を確かめたヨジンは、憎んでいたはずの漢江へと向かっていくのでした。
『鰐〜ワニ〜』解説・考察
初監督作品ながら巧みなショットの数々
キム・ギドク監督の記念すべきデビュー作品です。3年間のフランス生活を終え、本格的に映画の勉強を始めたキム・ギドク。書き続けたシナリオのうちの一本が賞を獲得し、本作の企画を制作会社に持ち込むことになります。
当初は脚本だけ売るつもりだったようですが、とっさの思い付きで監督も担当することに。もちろん手探りの現場となるのは避けられなかったはずで、撮影には4か月の期間が費やされました。
4か月というと大したことないように思えるかもしれませんが、本作以降のキム・ギドクは早撮りが当たり前となっていきます。『悪い男』や『春夏秋冬そして春』は1か月で撮り終えており、近作『STOP』に至ってはわずか一週間。驚異的なスピードです。
こうして出来上がった『鰐〜ワニ〜』ですが、意外ともいえるほどにカメラワークは巧緻です。撮影を担当したイ・ドンサムの技量でもあると思われますが、現在のキム・ギドクからはあまり想像できないショットも多くあり、幻想的な水中撮影の妙は必見といえます。ちなみに、パッケージ画像がすべてを物語ってしまっています。
救いがたい悪の果てに
主人公のヨンペ(仲間にはワニと呼ばれています)は橋の下で暮らす浮浪者なのですが、この男がどうしようもなく非道。漢江に身を投げた死体から金目のものを回収したり、気に入った女を見つけては強姦する卑劣漢です。
ある晩、彼は橋から飛び降りた女性ヒョンジョンを助けることになります。どうやら恋人への思いを断ち切れずに自殺を図った彼女を、ヨンペは容赦なく性のはけ口にしてしまう。浮浪者仲間の老人や少年に守られながらも、ヒョンジョンは毎晩ヨンペに犯され続けます。
私たちがこのヨンペという男を好きになれないのも当然の話で、彼は後のキム・ギドク監督を特徴づけ、そして批判の原因となる「暴力」や「性」を一手に引き受けるような存在です。演じているのはチョ・ジェヒョン。『悪い男』を始め、キム・ギドク作品に欠かすことができない俳優です。
とはいえこのヨンペという男、アンチヒーローとしての魅力も備えており、完全に突き放して見ることはできません。アコギな商売で稼いだ金はポーカーで掠め取られ、金持ちを恐喝しようとすれば返り討ちにされてしまう。すべて自業自得ではあるのですが、どこかで慈しみを感じずにはいられないキャラクターです。
他のギドク作品同様、登場人物の過去については何一つ説明されていないのですが、チョ・ジェヒョンの演技と相まって、そのキャラクター造形には深みがあります。話が進むにつれ、彼の中にある良心に気がつくことになるはずです。漢江の底に美しい世界が広がっているように、悪の深奥にはわずかな善意が眠っています。
地上と水中とを行き来するワニ=ヨンギは、まさに善と悪を兼ね備えた両義的な存在です。と同時に、彼は生と死、此岸と彼岸の間に立つ存在でもあります。ギドク作品において何より白眉といえるのは、その対立する二つの世界を、徹底して後者の側から描こうとする点にあるといえるでしょう。
悪の淵に、死の淵に眠る美学。耽美的なラストショットが意味するものは、キム・ギドク監督のマニュフェストだったのかもしれません。
関連作品:『グエムル-漢江の怪物』
本作のシナリオを構想していた時、キム・ギドク監督はソウルの漢江周辺に住んでいました。そこで目にした浮浪者や自殺者たちの姿から、『鰐~ワニ~』の物語が生み出されたのです。
漢江というのはソウル市民にとって、というより韓国人にとって広く親しまれてきた川です。と同時に、その上流は南北の軍事境界線に近い臨津江(イムジンガン)であり、歴史的な意味を背負ったモチーフでもあります。
ポン・ジュノ監督の代表作『グエムル-漢江の怪物』では、その漢江から鰐ならぬ「怪物」が姿を現すことになります。爬虫類のような巨大なモンスターがソウル市民を襲うなか、さらわれた娘を助け出すために立ち上がる家族。政治的なメッセージ含まれたモンスターパニック映画です。