『ザ・ビッグハウス』概要


ニューヨーク在住のドキュメンタリー作家・想田和弘。彼の提唱する「観察映画」は、これまで日本を舞台に撮影が行われてきた。『選挙』の市議選に、『精神』の精神科診療所、『演劇1・2』の劇作家……。

だが、第8弾となった『ザ・ビッグハウス』(2018年)で、ついにカメラは「アメリカ」へと向けられる。ミシガン州アナーバー市にあるミシガン・スタジアム、通称「ザ・ビッグハウス」が今回の舞台だ。

きっかけは2016年、想田監督がミシガン大学に招聘教授として招かれたことによる。同大学のマーク・ノーネス教授(日本映画、特にドキュメンタリーの研究で知られる)と、ドキュメンタリー監督のテリー・サリスと一緒に映画のクラスを受け持たないか、との誘いを受けたようだ。

これに応じた想田監督はアナーバーへと飛び、13人の学生に「ダイレクト・シネマ」の講義を行うことになった。その実習課題として『ザ・ビッグハウス』の制作に取り組んだのである。

収容員数11万人、東京ドームの2倍近い規模を誇るフットボール・スタジアム「ザ・ビッグハウス」を、学生たちが思い思いに取材する。こうして集まった素材を想田監督が編集し、教師と学生を交えた喧々諤々の討論を経て、一本の作品が仕上がった。試合に熱狂する観衆、裏方として働くスタッフ、そこに重なる複数のイデオロギー。スタジアムの全貌をとらえた本作の撮影は、奇しくもトランプ政権の誕生前夜と重なった。

『ザ・ビッグハウス』解説

観察映画の十戒

想田和弘は「観察映画」の方法論を提唱するにあたって、みずから「十戒」と呼ぶルールを課している。ここで全文を引用することは控えるが、基本的にはドキュメンタリー制作から可能な限り「予定調和」を排除し、目の前の出来事をダイレクトに受け止め、思考するための制約と考えて構わないだろう。たとえば台本、ナレーション、説明テロップ、音楽の類を使用しないのも、そのひとつである。

といっても、このルールは何も教条的なものではなく、作品に応じて若干のヴァリアントを生み出してきた。特に『ザ・ビッグハウス』は13人の学生が制作に加わっている以上、予定調和を完全に取り除くことは難しい。撮影はスタジアムのバックヤードにも及ぶため、事前の申請は必要であろうし(訴訟大国であるだけに)、授業時間は限られているため、「誰が何を撮るのか」をある程度は決めておく必要がある。

また、十戒には「カメラは監督ひとりで回す」というルールも含まれているが、これも反故にしなければ仕方がない。そもそも、相手は全米最大(世界2位)の収容人数を誇るフットボール・スタジアムである。アナーバー市の人口は約11万人だが、このビッグハウスには毎試合それに近い人数の観客が集まるという。

驚くべきは、このスタジアムを所有しているのがミシガン大学であり、同大学のチーム「ウォルバリンズ」の本拠地である点だ。いくら名門校とはいえ、学生スポーツがこの規模で行われているとは腰が抜ける。言うまでもなく、その全貌を一人で撮るのは不可能に近いだろう。

かくして、今回の観察映画は二重の意味で民主化されることになった。第一に、撮影が複数に分業されたという点で。第二に、作品の対象や主題が、話し合いにより決められたという点で。

そのため、この『ザ・ビッグハウス』は構成自体に意外性を含む作品ではない。これまでのフィルモグラフィーと比べても、どこか地に足のついた印象を受けるだろう。だが、それでも共同作業だからこそ生まれた偶然が、私たちに多くの発見を与えてくれる。

何より本作は、2016年に行われた大統領選を、トランプ政権誕生の過程をとらえてしまったのだから。

換喩としての映画

映画は「ビッグハウス」の試合前パフォーマンスから始まる。米軍特殊部隊によるパラシュート降下の、ダイナミックな視点ショットだ。

大歓声に包まれたフィールドに隊員が降り立つと、休む間もなくチアリーダーとマーチングバンドが登場し、観客を大いに盛り上げる。すると「The Big House」のタイトルが挿入され、場面は変わって早朝。どうやらバックヤードで火災報知機のテストが行われているようだ。スタッフによる入念な準備の様子を、カメラはつぶさに観察していく。

本作に向けて書かれた文章の多くは、そこに登場するフットボール・スタジアムが、「アメリカ合衆国」の縮図であることを指摘している。そう、この映画にはアメリカ的な事象の一切が含まれているように思える。

たとえばナショナリズムの高揚があり、ミリタリズムへの賛歌がある。白人と黒人を分断する社会構造があり、アマチュアスポーツを取り巻く資本主義がある。そしてまた、スタジアムの内外には宗教がある。

言い換えるなら、それは「ビッグハウス」が「アメリカ合衆国」の換喩(メトニミー)であることを意味している。ここでは部分が全体を、現実的な関係に基づいて表象している。卑近な例を挙げれば、「王冠」が「王」を表象する、といった風に。あるいは、それはドキュメンタリー映画の巨匠、フレデリック・ワイズマンの作品群を思い起こさせるかもしれない。『高校』、『動物園』、『メイン州ベルファスト』……。ワイズマンが狭い空間を切り取るとき、そこには往々にして超大国アメリカの姿が描かれている。

だからこそ、なのだろう。『ザ・ビッグハウス』の劇中、突拍子もなくドナルド・トランプの影が映りこむとき、私たちはそこに違和感を覚えざるを得ない。彼がアメリカ合衆国の元首になったという現実は、まったくもって換喩の外側に存在しているからだ。

一方において、カメラはスタジアムを取り巻く人々の姿を、ひとりひとり丁寧に映し出していく。他方において、スタジアムの横をトランプ陣営の山車が通り過ぎ、大空では飛行機がトランプ支持のバナーをはためかせている。このとき、果たしてスタジアムとトランプは「現実的な関係」で結ばれているのだろうか。

この映画にはアメリカの諸問題が換喩として描かれているが、トランプ勝利の背景にあったものはほとんど描かれていない。巨大なスタジアムを隅々まで「観察」した本作は、逆説的に、大統領選挙の実像がスタジアムには反映されていないことを証明している。トランプの支持者も反対者も、「観察」するカメラの前から逃れているのだ。

ひとつ断っておくと、それは撮影の「内容」ではなく「形式」の問題である。極端な思考実験だが、かりに監督である13人の学生が100人に、あるいは1,000人、10,000人に増えていったとして、本作のカメラは「ドナルド・トランプ」のアメリカをとらえることができただろうか。言い換えれば、「部分」の観察から出発して「全体」へ至ることはできただろうか。

おそらく、無理だろう。2016年11月、トランプが大統領選に勝利するとは、多くの者が予想していなかった。というより、トランプ本人も当選の一報に面食らったと言われているくらいだ(マイケル・ウォルフ『炎と怒り』)。

ここには一般に「ダイレクト・シネマ」と呼ばれる手法の限界が露呈しているように思える。演出を排したカメラが捉えることができるのは、目の前にある「現実的な関係」だけだ。たとえば高額なVIP席に座ることができる白人がいて、M&M;のチョコレートを売る黒人がいる。両者の映像は、間違いなく人種の問題を提起するに違いない。だが、監督や多くの人々にとって想定外だった政権の誕生を、後から描くことはできない。プロットやナレーションを入れることは、みずからの掟を破ることになるからである。

隠喩としての映画

実のところ、本作には「もうひとつのエンディング」が存在する。というのも、いったんは完成したフィルムが、関係者向けの試写会で賛否両論を巻き起こしたのだという。やがて共同製作者のマーク・ノーネスやテリー・サリスからも声が上がり、最終的には学生たちとディスカッションの場が設けられたそうだ。この白熱した討論は多数決へ持ち込まれ、結果として6分間のエンディングはカットされた。

ちなみに、このあたりの経緯については、監督の著書(『THE BIG HOUSE アメリカを撮る』)で詳細に言及されており、カットされたシーンはDVD特典として観ることができる。

ありていに言ってしまえば、当該のシーンでは反トランプデモの様子が収められている。トランプ政権の誕生後、ミシガン大学とアナーバー市街で行われたものだ。様々な解釈が可能だが、少なくともこの場面を最後に挿入することで、本作の政治的なメッセージは明確になる。あの時、あの場所で、トランプに声を上げる者たちが存在したことが、はっきりと示されるのだ。

このエンディングで想田監督が試みようとしたのは、換喩としてのドキュメンタリー手法に、ひとつの隠喩を持ち込むことだったように思える。『ザ・ビッグハウス』は全編にわたり換喩の映画だった。繰り返せば、スタジアムという「部分」によって、アメリカ合衆国という「全体」を直接に描き出す試みだった。それは13人の監督たちがスタジアムを隅々まで観察し、それを想田監督が編集したことによって、見事なまでに成功している。

これが他の時期に撮影されていれば、何も問題はなかっただろう。だが、撮影がクランクアップを迎えた頃、トランプが歴史的な(?)勝利を収めてしまう。そこで事後的に撮影した反トランプデモの場面を付け加え、それを本編の映像と関連づけることによって、間接的な仕方で、スタジアムの内部に政治性を作り出そうとしたわけである。

ここで問いたいのは、「もうひとつのエンディング」の是非ではない(そもそも完成版ではカットされたのだから)。そうではなくて、トランプ政権の誕生という出来事が、ダイレクト・シネマの手法では描き出せない場所に置かれており、想田監督はその領域へ踏み出そうとしたという事実である。

たとえば、フレデリック・ワイズマンなら「ビッグハウス」をどのように撮っただろうか。おそらく、デモの映像をエンディングに使うことはなかっただろう。選挙戦の実態が見えずとも、スタジアムの人々を丹念に映したに違いない。

ワイズマンと想田和弘。ダイレクト・シネマと観察映画。ここには大きな径庭がある。実のところ、それはドキュメンタリー映画の新たな地平を指し示しているように思えてならない。今後の観察映画がどこへ向かっていくのか、固唾をのんで見守りたいところだ。

関連作品:『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』(2017年)


ドナルド・トランプが選挙に勝利を収めた2日後、巨匠フレデリック・ワイズマンは『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』の編集作業を終えている。事前のリサーチを行わず、カメラを回しながら思索を深めるワイズマン作品であるが(もちろん、そのスタイルは「観察映画」へと引き継がれている)、本作を通して見えてきたのは、図書館という存在が「反トランプ」を体現している事実だったという。
ここには単に、人類の叡智が収められているだけではない。音楽コンサートや読書会、就職支援や企業セミナーと、日本では考えられない規模のサービスが展開されている。そもそも、この図書館を運営しているのはNPO法人。行政に頼らずして「公共」が成立するあたり、いかにもアメリカらしい施設と言えるだろう。

2019年度には市からの予算削減という憂き目に遭ったが、女優のサラ・ジェシカ・パーカーなどによる署名運動が展開され、無事に追加予算を獲得。引き続き十全なサービスが提供されているようだ。

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