『哲学の誤配』書評:能動的誤配のために——経営者・東浩紀の転向と転回

『哲学の誤配』概要


『哲学の誤配』東浩紀著、株式会社ゲンロン、2020年。

東浩紀(あずま・ひろき)
1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。
専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(1998年、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(2001年)、『クォンタム・ファミリーズ』(2009年、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(2011年)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(2019年)、『テーマパーク化する地球』(2019年)ほか多数。

『哲学の誤配』著者紹介より

『哲学の誤配』書評

『一般意志2.0』から「株式会社ゲンロン」へ

個人的な話から始めると、東浩紀という名前を知ったのは、大学に入学した直後——2011年頃のことだった。ちょうど『一般意志2.0』(11年)が刊行された時期にあたるが、最初に手に取ったのは『存在論的、郵便的』(98年)だったと記憶している。どうにも、アクチュアルな著作は取っつきにくかった(失礼な話だが)。震災後の沈滞した空気のなかで、著者はすでに批評家と名乗ることをやめていたし、みずからの思想を過去のものとするような発言もあった。どちらかと言えば批評に興味があった自分は、一貫しないその姿に途惑いを覚えてしまい、もっぱら初期の著作を読みふけった。

本書には、その『一般意志2.0』に関するインタビューも収められている。2012年の韓国語版刊行を記念し、訳者である安天(アン・チョン)を聞き手として行われたものだ。くだんの震災からまだ間もないが、ここでは『一般意志2.0』の内容が前向きに語られている。熟議のみによる民主主義には限界があるとし、新たな情報技術(Twitterやニコニコ動画から着想を得ている)を回路とすることによって、大衆の「集合的無意識」を政治の場に反映させる。いま読み返しても、論旨の輝きは失われていない。たとえば現在、台湾の民主主義プラットフォーム「vTaiwan」が注目を浴びているが、『一般意志2.0』はその一歩先を行く議論が展開されているように思える。

だが、惜しむらくは、肝心の情報技術が「集合的無意識」とは程遠い、大衆の決定的な断絶をもたらしてしまった点にある。おそらく、著者は上述したインタビューに答えながらも、内心では幻滅を覚えていたのではないだろうか。このあたりの状況は、同じく安天とのあいだに行われた2つ目の対話(2018年、韓国語版『観光客の哲学』の刊行記念)で語られている。Twitterもニコニコ動画も、民主主義の新たな形式を作り出すことはできなかった。それどころか、加速するインターネットは、ポストトゥルースやフェイクニュースといった悪しき現象を生み出してしまった。ここにおいて、著者の思想は転回を余儀なくされる。

インターネットの限界が露出し、情報社会論をベースとする若手の論客が足場を失っていくなかで、著者の思想はどこへ向かっていくのか。そのひとつの答えが「ゲンロン」だったのだろう。すでに会社を設立していた彼だが、本格的な経営に取り組み始めたのは2013年頃だったと語っている。たしかに個人的な記憶をたどると、当時の著者は「経営者」の肩書を強調するようになっていた——「哲学者」と同じくらいに。

「受動的誤配」から「能動的誤配」へ

『一般意志2.0』から「ゲンロン」の経営へ。 ここには一見すると、悲観的な転向があるように思える。インターネットの可能性に見切りをつけ、ローカルなサロンの場を構築する。たしかに、それは持続可能な規模にまでコミュニティを縮小する、一種の戦略的撤退と言えるのかもしれない。だが、それでも根底において、著者の思想は一貫している。それどころか、深化しているとさえ言える。ここで行われているのは、やはり「誤配」をめぐる可能性の追求なのだから。

能動的に誤配するという表現は逆説を含んでいます。「誤配」を意図的につくり出すのは本来は不可能です。でも、誤配が起こりやすい状況をなんとかしてつくり出せないか、というのがぼくがいま考えていることです。

『哲学の誤配』88頁。

「(受動的)誤配」から「能動的誤配」へ。この移り変わりこそ、著者の最もラディカルな転回だろう。逆に言えば、それ以外の変化(批評家から哲学者、アカデミズムから在野の知識人、デリディアンからオタク……)はすべて表層的なものに過ぎず、本質的には通底しているように思える。以降、ゲンロンを拠点とする著者が論じていく「旅行」や「観光」といった概念も、この「能動的誤配」の延長線上にあるはずだ。

本書に収録の「データベース的動物は政治的動物になりうるか」は、中国・杭州で行われた講演である。ここではジャン=フランソワ・リオタールの『ポスト・モダンの条件』を下敷きとして、ポストモダンの概念が問い直されている。その理論的な支柱となっているのも、独創的な「能動的誤配」の哲学にほかならない。

興味深いのが、左派ポピュリズムの言説に対する批判だ。エルネスト・ラクナウや、彼の衣鉢を継いたシャンタル・ムフによって提唱されている「ポピュリズム」概念の理論化と、その戦略的な援用。この左派ポピュリズムについて、著者は手厳しく批判を加える。それは左派が、右派と同じルールのなかで人民を複数化し、勝利を目指しているに過ぎない。そうではなくて、本当に複数化しなければならないのは「ルール」そのものだ、と述べるのである。

人民の運動ではなく、ルール自体を複数化しなければならない。かつてインターネットの言説に希望を抱き、そして裏切られた著者だからこそ、その主張には強い説得力がある。『一般意志2.0』で仮託したような情報社会の「運動」は、結局のところ、TwitterやFacebookといった大きな「ルール」に回収されるものでしかなかった。それでは右派のポピュリズムを再生産するだけである。私たちは別のルールとして、新たなプラットフォームを作り上げる必要性に迫られているのだ。

雑駁なまとめ方かもしれないが、東浩紀という人間は、誰よりも実存的な思想家なのだと思う。1991年に「ソルジェニーツィン試論」を書いたときからそうであったし、いわゆる「ゼロ年代」の渦中でもそうだったのかもしれない(おそらく、真に彼だけが)。デリダやサブカルチャー、情報社会へと領域を横断したところで、それは変わらない。いつも根底には人間存在があり、身体と世界との関係性があった。その先に「株式会社ゲンロン」があったのだと考えれば、著者の経歴は一本の筋が通っている。

「能動的誤配」の理論と実践が重なる空間として、「ゲンロン」はかけがえのない場所だ。

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