
- 『悲夢』以降、3年にわたる山籠もり生活を続けたキム・ギドク監督のセルフ・ドキュメンタリー。
- もどかしい感情をあらわにするギドクと、そんな自分を冷静な視点で見つめるギドク。
- ドキュメンタリーは、やがてフィクションの領域へと、映画の領域へと入っていく。
『アリラン』作品概要
早撮りで知られるキム・ギドクは、ほぼ毎年1本のペースで新作を発表してきました。しかし、2008年の『悲夢』が完成すると、彼は突如として映画界から姿を消してしまいます。撮影中の女優があわや死亡するという事故を起こし、映画を撮る意欲を失ったことが原因でした。
映画関係者との交流も絶ち、孤独な山籠もり生活を始めたギドク監督。その隠遁生活も3年目に入る頃、購入した一眼レフで自分の姿を撮り始めます。こうして完成したドキュメンタリー作品『アリラン』は、2011年のカンヌ国際映画祭で上映され、ある視点賞を受賞することになりました。
その後、彼は実験的作品『アーメン』(11年)を経て、2012年の『嘆きのピエタ』(ヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞)で本格的な復帰を果たすことになります。
『アリラン』あらすじ
山小屋で隠遁生活を送るキム・ギドクの生活が淡々と映されます。質素な食事を作り、野良猫と戯れ、顔を洗って髪を梳かし……。
やがてキム・ギドクは、カメラに向かって独白を始めます。「おまえはなぜ映画を撮れない?」。自分自身の人生を、映画監督としての姿を見つめ直すことで、彼はあてどもない状況から再起を図ろうとしていました。
自己との対話はどこまでも続き、彼の映画に対する思い、人生観や死生観が語られます。朝鮮民謡の「アリラン」を歌いながら、むせび泣くキム・ギドク。手作りの拳銃を持った彼が、最後に山を下りて向かった先は……。
『アリラン』解説
ギドク流セルフ・ドキュメンタリー
キム・ギドクという男は、おそらく女にモテるはず。野性味あふれる顔立ちでありながら、髪はスタイリッシュに整えられ、豪胆な性格と思えば、意外と手先は器用。本作でも全編にわたり、ときに情熱的で、ときに冷静なまなざしをカメラに向けてくれます。ギャップ萌え確実。
とはいえ、こうした二面性はギドク作品に通底している主題であり、方々でその断片を認めることができます。たとえば『リアル・フィクション』(00年)は復讐の憎悪に駆られた絵描きの物語でした。寡黙な彼は自分の分身のような男に発破をかけられ、残忍な復讐者へと変わります。その絵描きが殺人を行っていく横で、正体不明の少女がハンディカムを構えているのです。ここでは彼女が撮った粗雑な映像が挿入され、劇中劇のような入れ子構造が生まれています。理性を失った絵描きの視線と、それを傍観する少女の視線。二種類の異なる視線が、それぞれ別の階層で描かれるのです。
なにも『リアル・フィクション』に限った話ではなく、この第三者というのはギドクのフィルモグラフィーに一貫して登場するモチーフです。『悪い男』のヤクザはマジックミラー越しに思い人のセックスを眺めますし、『サマリア』の温厚な警官は、娘が援助交際をしている様子を遠巻きに追跡することになります。『ブレス』では死刑囚と主婦の恋愛が描かれますが、面会室での二人の行為をカメラで眺めるのはキム・ギドク演じる保安課長なのです。
と、すべてを列挙していくとキリがありません。いずれの作品でも、主人公の行為(多くの場合、それは暴力とセックスです)を傍観、あるいは窃視する第三者の存在が描かれます。この第三者は『ブレス』のように最後まで傍観を決め込むこともありますが、基本的には何らかの形で物語に参与し、行為の当事者となっていくのです。
分裂するギドクの視点
卑近な言い方をすれば、それは「ギドクの視点」だといえます。マーティン・スコセッシの作品に「神の視点」が登場するように、ギドクの作品にも特異な視点が存在するのです。そして、そのことは先に触れた彼の二面性と無関係ではないように思えます。主観的な視線と、それを眺める客観的な視線。両者の混交によって、ギドクの物語は初めて成立するといえます。
『アリラン』に話を戻すと、やはり明示的な形で、途中からギドクは二人のギドクに分裂します。影の質問者ギドクと、その問いに答えるギドク。朝鮮民謡の「アリラン」を高らかに歌い上げるギドクと、その映像を冷めた目で編集するギドク。『春夏秋冬そして春』に出演している上裸のギドクと、そのシーンを観返してむせび泣くギドク。ギドク。ギドク。
そこに映っているのは一人のキム・ギドクなのですが、彼は自己との限りない対話によって、それを映像にすることによって再起を図ろうとします。「今、何かを撮らなければ幸福になれない」と語る彼は、ただひたすらに、純粋に映画を希求しているのです。
最終的に、ギドクは山を降りて街へと向かいます。コートのポケットに手作りの拳銃を入れて。ノンフィクションからフィクションへと、その銃声=ショットによって、彼は映画の世界へと立ち戻っていくのです。
関連作品:『極私的エロス・恋歌1974』(1974年)
セルフ・ドキュメンタリーというジャンルがあります。これは監督自身の手によって、自分を被写体として撮られたドキュメンタリー作品のことです。
歴史自体は古いものであり、とりわけ日本では過去に隆盛を極めた経緯があります(現在、その経脈はYouTubeへと受け継がれているかもしれません)。
そのセルフ・ドキュメンタリーのなかで比較的入手しやすいものを。『ゆきゆきて、神軍』(87年)などで知られる原一男の初期作品『極私的エロス・恋歌1974』です
。沖縄で暮らす原監督の元カノが、黒人米兵とのあいだに出来た子を自力出産する姿がカメラに映し出されます。凄まじい口論の果てに行われる、緊迫した出産劇。
したたかな女の生き様を描き出す、傑作ドキュメンタリーです。