
『受取人不明』作品概要
キム・ギドク監督6番目の作品として『受取人不明』(2001年)は製作されました。
混血の少年チャングクを演じたのはヤン・ドングン。8歳の時から子役として活躍し、後にラッパーとしてもデビュー。2002年には韓国ドラマ史に残る名作『勝手にしやがれ』の主演を務めて国民的俳優となりました。
片目を失明した少女ウノクを演じたのはパン・ミンジョン。本作でデビューを飾った彼女は、その後の出演作に『S.I.T.特命殺人捜査班』(2011年)などがあります。
画家の息子ウノクを演じたのはキム・ヨンミン。彼もこれがデビュー作となり、ギドク監督の『春夏秋冬そして春』(2003年)で青年の役を演じています。
また、犬商人の役には『悪い男』などギドク作品の常連となるチョ・ジェヒョンが選ばれています。
余談として、『魚と寝る女』(2000年)では撮影時の動物虐待が非難されたギドク監督ですが、本作の冒頭には「動物の安全を確保した」旨のテロップが挿入されました。劇中には犬の屠殺シーンもありますが、さすがに懲りたのか直接的な描写は避けています。
『受取人不明』あらすじ
1970年代、米軍基地に隣接する韓国の村。高校生のウノクは、幼少期に兄から受けた傷によって右目を失明していました。
そんな彼女に思いを寄せるのが、肖像画家の息子であるチフムです。しかし学校に通っていない彼は、アメリカかぶれの高校生から虐められていました。
そのチフムと親しいチャングクは、韓国人の母と黒人米兵の父との間に生まれた混血児です。しかし父はアメリカに帰国し不在で、彼に宛てて母が書いた手紙はいつも受取人不明で返送されるのでした。
いつか夫の待つ米国へと渡れる日が来ると信じている母親に、チャングクは怒りを隠せません。働いている犬商人の仕事にも馴染めず、鬱屈した日々を送っていました。
そんな中、米軍基地でホームシックに陥っていた兵士ジェームズは、高校で見かけたウノクに声を掛けます。彼はウノクの目を米軍病院で治すことと引き換えに、恋人となるようにと諭すのでした。
彼らの渦巻く感情は、やがて暴力となって表出することになります。
『受取人不明』解説
冒頭の30秒間に注目
キム・ギドク監督初期の代表作とされる『受取人不明』ですが、その主題は冒頭30秒間に凝縮されています。
映画が始まると、何やら木材を加工する作業がクロースアップで映し出されます。木材には米軍のロゴが書かれているのですが、それを組み上げて完成したのは玩具の銃。少年の手がそこに弾薬を装填します。農道の向かい側には少女が立ち、頭の上には空き缶(Cレーション)を乗せている。
少年は空き缶に狙いを定めて銃を撃つのですが、次の瞬間に少女は顔を押さえ、地面にうずくまってしまいます。画面はホワイトアウトし、本作の英題「ADDRESS UNKNOWN」が迷彩柄を背景に映し出されることになります。
ここまで30秒。この短い映像の中に、私たちは「アメリカの影」をいくつも見つけることができます。しかも少年によって誤射された少女の姿は、この物語の被虐的な運命を予感するようにも思えてしまう。作品全体の構図が縮小された、恐ろしく濃密なモンタージュであることは疑いを容れません。
混血児の物語
舞台となるのは1970年、米軍基地のある小さな農村。あらすじの項目を読むと分かるのですが、ミニマルな構成を好むギドク監督としては、やけに登場人物が多い設定です。
あらためて整理しておきます。冒頭のフッテージで撃たれた少女はウノクという名前で、現在は高校生になっています。撃っていた少年はウノクの兄なのですが、彼女はその時の誤射が原因で右目を失明している訳です。
白く濁った目にコンプレックスを持つウノクは、米軍病院で診てもらうために英語を勉強しています。そんなウノクに恋をしているのがチフムで、彼の父親は街で米軍兵相手の肖像画家。家は貧しく学校には通えません。
チフムはウノクに振り向いてもらえないどころか、村の高校生二人からいじめを受けています。いじめっ子はアメリカかぶれのようで、米軍兵から「プレイボーイ」を買っては辞書を片手に読みふけっている。そして英語を使えないチフムを馬鹿にするのです。
ウノクもいじめっ子も、英語を学ぶことが最重要であることは容易に理解されます。一方で英語を学ぶ機会を持たないチフムは蔑まれ、登場人物の中でひとり沈黙してしまう。英語どころか韓国語さえも発話しないんです。
とはいえ、チフムには一人だけ信頼できる友人がいます。それが黒人兵の父を持つチャングクなんですが、彼の立ち位置は特異といえます。流暢に英語を話せるにもかかわらず、混血児であるために村人からは蔑まれている存在なんです。
犬を屠殺できないほど気の優しい男なんですが、母は米兵に身を売った"アバズレ"と見なされている。英語を使える者がマウントを取れる村人の中で、彼だけは「話せるだろ?」とそそのかされても英語を発話しようとしない。映画の終盤、チャングクの抑え込んだ怒りは爆発することになるのですが、ここでは踏み込まないでおきます。
彼らの関係性にポストコロニアルな思想を読み取ることは難しくありません。この物語の韓国人にとって、英語は抑圧者の言語です。彼らは失われた主体性を回復するためにその言語を獲得しようとするのですが、それは抑圧者への同一化も意味することになります。
混血児であるチャングクは、この二律背反を身をもって理解している訳です。帰国して音信不通の父(抑圧者)と、そんな父に「受取人不明」の手紙を送り続ける母(被抑圧者)との間で、彼は引き裂かれてしまう。その分裂症的なキャラクターが悲劇的な結末を迎えることは、最初から運命づけられているようなものです。
ポストコロニアルな"まなざし"
さらに言えば、彼らの抑圧/被抑圧の関係性が"眼"によって象徴されていることも重要なポイントです。冒頭のフッテージで確認したように、ウノクが右目を失明しているのは兄が玩具の銃で誤射したことが原因です。そして、それは「アメリカの影」に覆われている表象でした。皮肉なことに、ウノクは抑圧者の銃によって失った右目を、抑圧者の側に立つジェームズと関係を持つことで治してもらう訳です。
それだけではありません。「犬の目」を持つと言われているチャングクはウノクに右目を突かれ、いじめっ子に仕返しをしようとするチフムは銃が暴発して右目を負傷します。
物語の中盤、ウノクとチフム、チャングクは3人とも右目に傷を負った姿で単一のショットに収まることになります。明らかに作為的な構図で、ギドク監督は登場人物から"まなざし"を奪ってしまう訳です。
これには様々な解釈が考えられますが(中にはラカン派精神分析を用いた論考もあります)、個人的にはチャングクの母の盲目性と関連しているように思います。
そもそも「受取人不明」の手紙を出し続けているチャングクの母こそが、この群像劇の本質的な主人公であるような気がしてなりません。米軍の廃バスで暮らし続け、夫からの返信を待ち続ける彼女は半狂乱の状態にあると言っても過言ではなく、登場人物たちの中では誰よりもアメリカに同一化する存在です。
彼女の盲目性はやがて身の破滅を招くことになり、同時にウノク、チフム、チャングクの3者の物語も悲劇的な結末を迎えます。「アメリカの影」に覆われた抑圧者の記憶を、その目で見届けてください。
関連作品:『かぞくのくに』
ポストコロニアル、つまり植民地主義以後の世界を表象する映画というのは、何も旧従属国だけに存在する訳ではありません。『かぞくのくに』(2012年)は在日コリアン2世のヤン・ヨンヒ監督が、実体験に基づいて製作した作品です。
在日朝鮮人が日本から移住する「帰国事業」によって北朝鮮に渡ったソンホ(井浦新)が、25年ぶりに来日を果たす物語。北朝鮮と日本の間で引き裂かれる家族の絆を、ソンホの妹リエ(安藤サクラ)を中心に描き出します。