『うつせみ』(キム・ギドク、2004年)映画のあらすじと解説

『うつせみ』作品概要

鬼才キム・ギドクによる11番目の作品として『うつせみ』(빈 집:3-Iron)は公開されました。同じ2004年の作品『サマリア』でベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞したばかりのギドク監督でしたが、本作はベネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。韓国国内で賛否をもって迎えられた『サマリア』と違い、こちらは興行収入的にも成功を収めた作品となりました。

ヒロインのソナを演じるのはイ・スンヨン。韓国代表としてミス・ワールドにも出場した美貌の持ち主で、『初恋』(1996年)などドラマを中心に活躍しています。

ソナと出会う主人公テソクを演じるのはジェヒ。本作で青龍映画賞新人男優賞を受賞し、その後はドラマ『快傑春香』(2005年)などに出演しています。

空き家を見つけては寝泊まりする青年テソクと、夫から暴力を受けている女性ソナ。全編にわたり言葉を発することのない二人の幻想的な恋愛譚が描かれます。

『うつせみ』あらすじ

主人公の青年テソクは高級バイクに乗る青年。彼は住人が留守の家を見つけては不法侵入し、寝泊まりをする生活を続けていました。転々とする仮宿の洗濯物を洗い、壊れている家電があれば直し、自撮り写真を撮るのが日課。

その日も、テソクは裕福な男ミンギュの邸宅に忍び込みます。一人の自由を満喫する彼でしたが、家にはミンギュから暴力を振るわれている妻ソナが粛々と生活していました。

彼女の存在に気が付いたテソクは、いそいそと家を後にします。しかしソナのことが気になる彼は、すぐに来た道を引き返し、帰宅したミンギュに向かってゴルフボールで応酬。横暴な夫に
囚われていたソナを連れ出すのでした。

こうして二人の家を転々とする生活が始まります。住居の玄関にビラを挟み、回収されない家を見つけては忍び込んでいくテソクとソナ。互いに言葉を交わすことのないまま、二人の距離は徐々に縮まっていきます。

しかし、幸福な時間はやがて終わりを告げられます。忍び込んだ先で警察に通報されてしまい、あらぬ容疑までかけられたテソクは逮捕。ソナはミンギュの待つ元の家へと連れ戻されてしまいます。

監獄の中でソナを思い続けるテソク。彼は信じられない方法でソナに会おうとするのでした。

『うつせみ』解説

無言劇が貫かれる理由

主人公の二人は劇中ほとんど台詞を発することがありません。といっても、こうした無言劇はキム・ギドク監督が何より得意とするものです。実際、本作以前の『魚と寝る女』(2000年)や『悪い男』(2001年)でも、寡黙な主人公の姿が描かれてきました。

なぜキム・ギドク作品では無言劇が貫かれるのでしょうか? 考えられる理由の一つは、沈黙によって被写体のイメージがより豊かに、より饒舌になるからです。言葉を介さずとも、私たちは役者の演技や画面上の演出を通して多くのメッセージを汲み取ることができます。むしろ言葉は欺瞞を生み出し、イメージを固着させる点で余計な存在です。

この『うつせみ』では様々な家の男女が映し出されますが、ほとんどの者たちが揃って口論をしているというのは、まさに言葉に対する皮肉のあらわれと言えるでしょう。

無言劇が貫かれるもう一つの理由は、監督自身の経験と深く関係しています。方々で言われていることですが、キム・ギドクは30歳の時にフランスへと渡り、路上で絵を売って生計を立てていました。フランス語も解せず、道を行く人々の表情や動きを観察する中で、彼は言語に頼らないコミュニケーションを学んだ訳です。

存在の空虚さ

キム・ギドク作品の中でも『うつせみ』の無言劇が突出しているのは、こうした非言語的なイメージによって、主人公の存在の空虚さが強調されることにあります。テソクやソナの沈黙は、映画から声を取り去ってしまうだけではなく、二人の存在まで奪ってしまうのです。

具体的に物語を追ってみます。青年テソクは住人が留守の家を見つけては不法侵入し、食べ物を拝借したり寝泊まりしたりしています。劇中の台詞から高学歴であることがうかがえ、乗っているのもBMWの高級バイク。にもかかわらず、そんな究極のノマド生活を享受しているんです。

ある日、テソクは忍び込んだ先の邸宅で虚ろな目をした女性ソナと遭遇します。彼女は特に息を潜めて隠れていた訳でもなく、ただ部屋で静かにうずくまっていただけなのですが、テソクは彼女の存在に気が付くことができませんでした。夜になり、ベッドに入ってでもぞもぞしている時に、彼はようやくソナがいた事実に気が付くことになります。

奇跡のような5分間

もちろん、ソナは全くと言っていいほど言葉を発しません。しかし、夫の留守電が部屋に流れると、彼女の置かれている状況が手に取るように分かってきます。彼女は強権的な夫に囲われ、DVを受けていた訳です。

事態を把握したテソクは、邸宅からソナを連れ出そうとします。ここからの5分間は何度観ても美しく、まさにギドク監督の真骨頂。このシークエンスを見てもらいたいがためにこの記事を書いているようなものです。

テソクがCDプレーヤーのボタンを押すと、異国情緒を感じる音楽が流れ始めます(ナターシャ・アトラスの『Gafsa』という曲みたいです)。ソナに家を追い出されたテソクですが、道を引き返してきて彼女の様子をうかがいます。帰宅してきた夫はソナを罵倒し手を上げ、しまいには無理やり抱こうとする。

庭で待ち構えていたテソクが姿を現し、ソナの夫をゴルフボールで攻撃します。うめき声を上げて倒れる彼をよそに、テソクの待つバイクへと向かっていくソナ。

このシークエンスが白眉であるのは、一貫した無言劇の中に多様なイメージが溢れ出ており、それが台詞の役割を果たしている点にあります。二人がゴルフボールを転がし合うことで対話する描写であったり、テソクがエンジンを空ぶかししてソナを急かす描写であったり。音楽の使い方もそうなんですが、全てのイメージが物語に寄与し、二人の感情を饒舌に代弁しているんです。

存在の耐えられない重さ

先ほどの話に戻ると、夫からDVを受けているソナは、自分の存在を空虚なものにしている訳です。頑なに無言を貫くことで、夫による罵詈雑言の嵐から身を守ろうとしています。

もっと言えば、ソナは夫だけでなく、社会全体から身を守ろうとしているように感じられます。というのも、彼女は昔モデルであったことが暗示されているんです。しかも貧しい環境で育ったらしく、ソナの夫が実家に送金している旨が語られています。

テソクとともにが転がり込んだ家でも、ソナは自分の写真を目にすることになります。彼女はそのイメージを受け入れることができず、写真を裁断してパズルのように組み替えてしまいます。まるでモデルであった過去を否定するかのように、男性的な視線を向けられていた過去を否定するかのように。

ここに韓国が抱える家父長制の構図を認めることは難しくありません。ソナの結婚が初めから望まぬものだった可能性も十分に考えられます。そうしてみると、留守宅を転々とするソナの旅は、夫の支配からの逃避行であり、社会の支配からの逃避行だったといえるかもしれません。

物語の後半、テソクは警察に捕まり、ソナは夫の家へと連れ戻されてしまいます。この後の展開がまた非常にギドク的で、語りたいことは無数にあるのですが、ネタバレになるのでここでは最低限に留めておきます。

牢獄に入れられたテソクは、ある人間離れした方法で存在の重さを失っていきます。禅宗的な思想に従って、心身を空虚なものにしようとする。そうすることで、再び夫に囲われたソナを救い出そうとする訳です。

その試みが成功したとき、一体何が起きるのでしょうか?

存在の重さを失った彼は、映画から姿を消してしまうんです。いや、彼は確かにそこに存在するはずなのですが、映画の被写体ではなくなってしまう。ソナが自分の写真を裁断したように、テソクも自分のイメージを溶解させてしまいます。ソナがモデルとして視線を向けられることを拒んだように、テソクも映画の被写体として視線を向けられることを拒んでしまう。

それはもう、幻想的な結末を迎えることになります。

関連作品:『俺たちに明日はない』

犯罪に走る男女の元祖バディムービー的作品といえば、アーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』(1967年)です。アメリカン・ニューシネマの先駆けとも言われる映画で、実在した銀行強盗であるボニーとクライドが描かれます。

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